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くもり空の形而上学

ジャパンカルチャーや茶道のこと、編集者の日常ことなど雑多に書きます

【いまさら】冬のソナタ 最終回 【解釈】

こんばんは。吹雪です。

今更感が猛烈にありますが、「冬のソナタ」を観ました。

ごはんを食べる時は映画なりドラマなり観ることも多く、ここ最近は韓流を観て、特にその異文化性と親和性を楽しんでいます。

 

そんなおり、たまたま持ち込み原稿があって、冬のソナタの文化論的な研究書を出すことになりました。沖縄在住の学者です。

 

なんとその著者の先生は、友人の父でした。びっくり。不思議なご縁です。

そういうこともあって冬ソナを10年遅れて観ているわけですが、中盤までは結構引き込まれました。まあまあ面白かったです。

 

なぜ最終回に納得がいかないのか

さて、ご覧になったことのある皆さん。あの最終回をどう思いましたか。

 

目が見えなくなって離ればなれになって、それでも再会して、感動して終わり、という構成になっていますが、どうせ再会するなら目が見えなくなる必要があったのでしょうか。

 

だって、ユジンもチュンサンも3年間、つらい思いするわけでしょう。その期間を超えてもなお愛があったと伝えたいのでしょうが、いくらなんでも可哀想です。

 

素晴らしい愛だねと手放しで褒める気にはなれず、手術くらい立ち会わせてやんなさいよといろいろ言いたいことが出てきましたが、一応、制作者の意図を尊重して、あの結末で良かったという理由を簡単に考えたいと思います。

 

チュンサンはユジンの心の中に住む

チュンサンが視力を失ってユジンの考えた家を訪れるのは、アメリカから帰国するタイミングで全くの偶然です。チュンサンがどれだけの期間その家にいたのかわかりませんが、そこで家をいとおしそうに触れて暮らしている彼の姿は象徴的ですし、また、目が見えないにもかかわらず、家を良く知っているという身振りはとても印象的です。

 

それはユジンの描いた夢に住むということでもあり、ユジンの心に住むメタファーになっているでしょう。チュンサンは悲しいながらも終の住処を見つけ、安らいでいるのです。

 

愛する人の心の中に住むという満足の中、チュンサンが穏やかな表情をしてにいる姿は、まさにユジンを愛する「運命」を受け入れて生きていることの象徴的表現ではないでしょうか。悲しくても、つらくても、ポラリスを見つめ続けると。それが自分の生なのだと。

 

実はここは大きなポイントではないでしょうか。ユジンの役割は、思春期の不安定さを支え、記憶を取り戻すだけに限りません。いわばユジンへの愛が、北極星に向かう地軸が地球を通るが如く一本の芯となって、チュンサンの生命という天体がまわることを可能にしているのです。チュンサンは常にユジンに救われていると読み取ることが出来ると思うのです。

 

運命の愛に気づいた人間

冬のソナタって、運命とか変わらないポラリスとかが重要なモチーフになっていますよね。乱暴な議論ですが、運命が大きなテーマになっていると思うのです。

 

目が見えなくなっても出会ってしまう、知らさなくても家を見つけてしまう、それだけではなく、あるいはそれ以上に、ユジンが描いた家を、静かにまた熟知したように触れて笑う彼の姿こそが、運命の確かさを描き、運命の愛に気づいた人間の描写であり、また愛の至上さと他に変えがたい救済を描いているのではないでしょうか。

 

それゆえ、結婚しなくて残念だとか、ユジン泣いてばっかりじゃないか、という心に残ったもやもやは、忘れてしまうに限ると思ったのでした。2人は3年間離れていても、きっと幸せだったのでしょうから。

 

雑駁ですがこの辺で。

吹雪でした。