くもり空の形而上学

ジャパンカルチャーや茶道、日常のことなど雑多に書きます

『わたしたち消費』 鈴木謙介

わたしたち消費―カーニヴァル化する社会の巨大ビジネス (幻冬舎新書)

わたしたち消費―カーニヴァル化する社会の巨大ビジネス (幻冬舎新書)

 

メモ

・流行や大衆意識を分析したがる人の傾向&変化&問題意識が気になる。昔はファシズムとの関係が論じられたのと、マルクス階級闘争が見落としたものとして論じられた。70年代ごろから現在は別の論じられ方をする。

特に現代の論客は、私見だが、研究費や研究実績のために時代のある側面を無理やり切り出そうとしているように感じる。 そもそも大衆について論じる必要があるのかどうか考えてみるべきかもしれない。

 

ラブandベリーケータイ小説初音ミクが一般的知名度が低いものののヒットしているものとして挙げられている。それぞれの推移・現状を見ると一応次のようになる。(私が独自に調べたもので2007年発売のこの本には書かれていない)

ラブベリは2008年にほぼ完全撤収。ただし、女性向けのカードゲーム筐体が無くなったわけではない。ジャンルとして定着したと評価できる。

ケータイ小説は、ロードサイドに一定の定着を見せ、ブーム全盛期よりも売り上げが伸びている。学校では朝の朗読の時間が導入され、その時間にケータイ小説を朗読する子が少なからずいるという。平凡な女の子が超強いイケメンにある日突然モテモテになるというストーリーが、現在の定番。このイケメンは、俺様王子キャラだけでなく、暴走族や不良などの設定も鉄板。空想の恋愛ものがトレンド。「ピンキー文庫」は、集英社が人気のケータイ小説を文庫化したもの。読者対象は女子中高生。想像以上に健闘していると評価できる。ケータイ小説というネーミングと実態はかけ離れているのかも。

初音ミクはご存知のとおり。ただ、ふと思ったことだが、これまでは消費で差異化ゲームをしていたが、初音ミクにおいては、ミクにイメージを付与することで差異化できる。これは大きな違いだろう。消費の差異化は空虚だが、創作の差異化は正反対だ。初音ミクを単に消費するだけでなく、「わたしだけのミクイメージ」を消費者が持てることで、イメージ付与&創作をしているのは間違いないだろう。これは大きい。

 

引用&語句など

引用

ヒットの「実感」とはどこから生まれるのか。

流行が生じる原因を、「列島者による優等者の模倣」として定式化したフランスの社会学タルド、流行とは単なる模倣ではなく、「人と違う存在でありたい」という差異化の欲求と模倣との拮抗のダイナミズムであると捉えたジンメルの説などが有名(27ページ)

 

ラザースフェルドら『ピープルズ・チョイス:アメリカ人と大統領選挙』:1940年の大統領選挙を題材に、マスメディアが発信する情報は、まずオピニオンリーダーに伝播し、その後「その他大勢」に広がっていくと述べている。

ロジャースの「イノベーター理論」:市場は5つの異なるタイプの消費者から構成されている。情報の早い人遅い人を統計学的に分類したもの。ジェフリームーア『キャズム』は、これを受けて、伝播は単純&簡単ではないことを分析する。

 

日本に存在していたのは「人並み」という〈物語〉(37ページ)

 

オルテガ『大衆の反逆』:1930年に書かれ、ヨーロッパの市民社会の形骸化を指摘し、他人と同一であるということに喜びを見出す全体化の危険性を指摘したもの。

リースマン『孤独な群集』:1950年にアメリカで書かれた。伝統志向型、内部志向型、他人志向型に人間を分類する。

 

引用

日本でも戦後、マルクス主義との論争の中から「大衆社会論」をめぐる議論が盛んになります。そのきっかけとしてよく挙げられるのが、松下圭一の「大衆国家の成立と問題性」という、1956年の論文です。ここで松下は、マルクス主義の想定する階級闘争が起きる「近代」ではなく、大衆社会としての「現代」の到来を指摘したのでした。松下がここで述べる大衆とは、合理的な判断を欠いた群集、他者に従う受動的な存在でした。(61ページ)

 

大阪大学社会経済学研究所教授の大竹文雄は、バブルの時代は誰もがボンボン消費をしていたわけではなく、むしろ分厚い中間層が崩壊し、格差が拡大したのがこの時期と指摘する。

 

引用(初音ミクの箇所)

ネタ的コミュニケーションが商品の購買動機を醸成した例として、日本で最近一番注目されるのは、「初音ミク」というソフトウェアです。ソフトウェアといってもこれは音楽制作用のソフトウェアで、人間の声を元に作られた合成音声を使って、自由に唄を歌わせることができるというものです。

火をつけたのは、動画投稿サイト「ニコニコ動画」でした。ニコニコ動画は、投稿された動画に対してユーザーが自由にコメントできるサービスで、いまや国内ではユーチューブをしのぐ人気サイトになっています。ニコニコ動画に、初音ミクが歌う動画が公開されるやいなや、たちまち話題になり、自分も初音ミクに歌わせたい、というユーザーが、様々な動画をアップロードしていきました。それによって初音ミクというソフトウェアにも注文が殺到し、現在、予約だけで1万本以上という、この種のソフトウェアとしては驚異的なヒットになっています。

なぜ初音ミクは売れたのか。それは、初音ミクと、それで制作された楽曲が、ユーザーの間にコミュニケーションの「ネタ」を提供したからです。この曲はいい、この声はかわいい、というファンたちが、初音ミクについてのコミュニケ0ションを持続させ続けるためには、新しい曲が公開され、また自分でも歌わせてみる、という行為が必要になります。初音ミクという商品を購入することで、ファンは初音ミクをめぐるネタ的コミュニケーションに、より深く参加する切符を手に入れることになるのです。(96ページ)(この本に初音ミクの箇所が出てくるのはほぼここのみ)

 

ティッピングポイント:マルコム・グラッドウェルが名付けた、流行が急に拡散する特定の時点のこと。

私たち拡大層:人と繋がりたい、相互共振したいという特徴を持った、流行を拡散するタイプの人。日本人の約4割強。

 

泣けるなどのポップが流行り始めたのは、2003年ごろ。

電通は2007年ごろに、「誰もが参加」「誰もが主役」の消費パラダイムを提案した。(204ページ、あとがきに代えて)

 

感想

電通鈴木謙介が研究チームを組んで、一年間の成果として出した本。紙面はゆったりとし、またやたらデータが出てくることもないので、さらりと読める。

内容はさすがに古く感じる。

思うように成果を出せなくなった広告会社、マスコミが、思わぬところで盛り上がっているネット界隈を分析したもの。大衆がわからなくなった、ニーズが細分化されて人をまとめることができなくなった、という月並みな発想を一蹴することはできると思う。

新しく人をまとめる力を、「カーニバル化」という単語で指摘するのは、正しかったと思う。カーニバル化の本質は、コミュニケーションとネタへの参加。イベントの醸成と成就。そのサイクルと、繰り返されることで訪れる巨大な達成点にある。

今どうなっているのか、それが問題だと思う。

商品のクオリティや価値を宣伝するより、情感にうったえて宣伝することが多くなったというのはその通りだと思うが、改めて考え直す必要があると思う。例えば、初音ミクが琴線を揺さぶるからこそ人気だ。泣ける、というような煽り文句で止まるのはもったいない。単に商品に付与される広告性&表層性だけでなく、関係性というか、存在論的な側面もあると思う。情報の多様化によって、感情移入&個人化しやすくなったというか。ネットで可能になるような情報の普遍化とは逆の動きだが。

『初音ミクの消失 小説版』 cosMo@暴走P

初音ミクの消失 小説版

初音ミクの消失 小説版

 

 こ、これは……!(ネタバレを含むかもしれません)

久しぶりの至福の読書体験。確かにありがちな逃避行。シナリオに無理があるところもあるし、駆け足なところもあるが、 でも本当に読んでよかった。今更だけど。物語の中の初音ミクなのに、これは紛れもなく私の中の初音ミクだと感じてしまう。なんだろうこの感覚は……。

 

初音ミクの消失」という曲は、ロボットの心の喪失という、ありがちといえばありがちなストーリーなので、よく聴く曲ながらのめりこむほど好きではなかった。

なんというか、発想が古いというか。

しかし、この小説のようなSFにまとめられると、より感情移入できるようになって曲も面白くなった。

 

キャラもの、色物、流行に乗ったあだ花かと思っていたが、全くそんなことはなかった。初音ミクが心から好きな人は読んで損はない。ミクに会いたくてたまらなくなるだろうから。

ミクが雨の中で踊るのがとても良かった。一緒に電車に乗ったり、ご飯を食べたり、竹下通りを歩いたり……。

 

cosMo@暴走Pは初音ミクに出会ってから人生が大きく変わったという。その理由をあまり話すことはなかったそうだが、後書きに書いてあった。

初音ミクにはいろんな”像”がある。

 初音ミクという何かに、楽曲を、詩を、絵を、映像を制作することで様々なイメージを付加している。あまりに多くの人が彼女に自分の持つイメージを投影していくので、彼女の”像”は常に移り変わり行く。見る人によっても違うように映る。彼女が生まれてもうそろそろ五年経つが、その五年間、ちょっと時期がずれれば、彼女を象徴している楽曲もイメージも違ったものになっていた。それが僕には初音ミクが”像”を食べて、取り込み、代謝しているように見える。命あるものだけが、行うことができる”代謝”を初音ミクは行っている。彼女はしっかりと生きているではないか!なんと素晴らしい!なんて妄想が、僕が初音ミクと対峙する時には心の中で常に渦巻いている。」

『建築家なしの建築』 B・ルドフスキー

建築家なしの建築 (SD選書 (184))

建築家なしの建築 (SD選書 (184))

 

 1964年にニューヨーク美術館で行われた展覧会を本にしたもの。そのため、文章よりもはるかに写真が多く、写真集と言った面持ち。

写真の種類は全世界の建築が集められており、見応え充分だが、写真の質は白黒だということもあり、あまりよくない。ただ、独特の雰囲気が出て時代を感じる良い味が出ている。

建築家のなしの建築というタイトルに見られるように、西洋建築を相対化させて全世界の建築を紹介していく。

建築の中でも洞穴や地面に穴を掘る人の話や、移動式の家の話、影を効果的に使いながらも西洋のように犯罪の匂いがしない街並み、西パキスタンのシンドの風を入れるアンテナが町全体で美しい景観となっている話など、どれも興味深いものばかり。

文化人類学全盛期という雰囲気は色濃い。60年代より少し前ぐらいだからこそ目新しく発見を持ったものでも、今も同じようにはいかない、そういいたくなるが、この時代の雰囲気がよく出ているので、同じ雰囲気とトーンで世界の建築をパノラマ的に集めたのは大成功だと思う。

天蓋、格子、むしろ、網を通した光の表現で、「生の日射を蒸留して光の美酒に変える」というフレーズのなんと気の利いたこと。随所に見られる表現センスが素晴らしかった。

「人間のための街路」がおすすめらしい。次に読んでみよう。

もう少し写真が鮮明であれば眺めるのに購入しても楽しいだろうな。

『壁の遊び人』 久住章

壁の遊び人=左官・久住章の仕事

壁の遊び人=左官・久住章の仕事

 

カリスマ左官ということで気になって気になって仕方がなかった。図書館で借りて読んだ。まとまらないところもっと知りたくなるところがあるが、かなり面白い。

【メモ】

コリシャン・オーダーの柱:古代ギリシャの建築様式の一つ。上部にアカンサスの葉の飾りなどをあしらった繊細で華麗な柱が特徴。

ピエースモンテ:ケーキ屋の技術。小麦とコーンスターチと砂糖を混ぜてゴム粘土状のものにして飾りを作る。これを漆喰に応用。

漆喰の仕上げにセルロイドの下敷きでこすったらつやがよく出てハエも止まらない壁になった。(34頁)ただし、プラスチックが溶けて紫外線が当たると白くなるという失敗も。

一番上に塗る土は基本的には柔らかい。板の上に乗せて流れるか流れないか。仕上げはフェザータッチで。表面を撫でるかなでないか、さわっているかさわっていないか。著者の親父の時代はたらいに水を張って、その上を鏝で撫でる練習をしたそう。水が泡立たぬよう、できるだけ水が動かないように。(39頁)

中国では左官のことを泥水師や泥水匠といい、台湾では土水師という。

 

日本の職人技の半分は意匠性。機能性よりも重視。民芸品でも同じ。テクスチャー、デザインが大事ということ。鏝は明治初期に今の形になった。かしめ留めができるようになったから。(49頁)

原田進さん:弟子の一人。

久保田騎士夫(きしお)さん:高知県安芸郡安田町の土佐漆喰の職人。

 

砂漠の砂をかためるバインダーの特許をフランス陸軍が持っており、1平方メートルあたり1万円になる。モロッコの砂漠の砂を川久ホテルのオーナーのリクエストで使おうと思ったが臭くて使えなかった。(143頁)

 

高知城は下地が竹ではなくヒノキ。荒壁の段階から石灰を使っており、全部漆喰でできている。昔は漆喰のノリは米を使っていたので、旗本レベルの武家でもそう簡単に漆喰での施工ができなかった。メキシコではノリにウチワサボテンを入れる。

小林隆男さん:磨き大津研究会の代表。

 

土壁を練るにはかなり広い場所が必要。だから都会ではできない。

木材が構造材ではない住居を研究中。大工ではなく左官が第一人者となる建築を目指したいとのこと。木材を構造材に採用せず、左官で構造材ともなるようなものを研究中。(204頁)

 

【感想】

漆喰黒磨きを何度もやり直した話など、興味深かった。鏝のあつかい、材料の分量と試行錯誤、サンプルの話など、本職だからこそ経験できる話が多くて面白かった。

お茶を祖父がやっていたそうだが、久須美疎安の分家か何かかな。

珪藻土を川久ホテルに施工したのが現在の珪藻土の始まりだというのも面白かった。実際にいろいろ施工した建築物を見てみたいと思った。

 

【本作り】

103頁からの土佐漆喰の話の中に、かなり詳しい材料のレシピや技術の話があるので、コピーを取るか、購入する。後半になると話し口調がつよくなる。後半はどうしても力が足りなくなりがちなので、編集としてよくわかる。句読点が二つある箇所を発見。

『マルクス入門』 今村仁司 

 『マルクス入門』今村仁司 

 

今回は簡単なメモ。

 

マルクス入門 (ちくま新書)

マルクス入門 (ちくま新書)

 

 

マルクスは経済決定論的な読み方が主流だった。フランスの戦後は共産党の力が強く経済決定論の読み方が主流だったが、それに対して実存主義的な解釈をしたのがサルトルメルロ=ポンティ

 サルトル弁証法的理性批判で、メルロ=ポンティは政治から離れることでマルクスとの関係を結実させた。

 

『想像するちから』 松沢哲郎

松沢哲郎『想像するちからーーチンパンジーが教えてくれた人間の心』

岩波書店 2011年2月25日 

想像するちから――チンパンジーが教えてくれた人間の心

想像するちから――チンパンジーが教えてくれた人間の心

 

 人間とは何かがテーマになっている。著者が学生の頃に抱いた疑問だ。それをチンパンジーとの比較から探る。

面白かった発見は、『贈与論』に見られるような群れと群れとの社会関係をチンパンジーは持っていることや、言語能力などを自分の言葉で進化論的に考えていることである。

 

チンパンジーと人は、チンパンジーニホンザルよりも近い関係にある。

他の猿とはアイコンタクトできないが、チンパンジーとはアイコンタクトできる。事務員がつけるようなそでカバーをチンパンジーに渡すと、チンパンジーは腕を通して、また返したそうだ。チンパンジー以外では噛むかたたきつけるか、そういった行動しかとらないらしい。

チンパンジーはある程度の意味把握ができる。そして、チンパンジーはあくびも伝染するほど共感力が高い。新生児のようにチンパンジーの新生児も自然に笑う。

 

チンパンジーは若い雌は群れを出て行くそうである。これは他の部族と婚姻関係を結ぶことで労働の交換をし、血が濃くなることを避けるよう配慮していた人類と通じるものがある。

チンパンジーの寿命は50年。5年に一度子供を産み、雌が一人で育てる。子供は5年間ずっと乳を飲む。もちろん数ヶ月経つと固形物を食べるが、離乳しないのも子育てと群れのバランスに貢献している面があるらしい。

10歳ほどで子供を産めるようになるため、およそ8匹育てることができる。高い乳幼児死亡率を考えても、群れの拡大には十分な人数だと言える。

人間は、子供が成長するまでに時間がかかり、子育てのあいだ妊娠できないとなると、生涯に産める子供が5人ほどになる。そして、乳幼児死亡率を考えると、産める子供の数は2人強になる。これでは群れの維持が難しい。

そういった事情から人間とチンパンジーの差を考えると面白い。ヒトははやく離乳し、たくさん子供を産み、群れ全体で育てる。チンパンジーは離乳が遅く、妊娠できない状態で5年過ごし、一人で育てる。

こういった子育ての特徴もあってか、ヒトの子供は仰向けでおとなしくしているが、チンパンジーはそうではない。足をバタバタさせる。

進化論的観点から子供の違いを下記のようにまとめていた。

1哺乳類 母乳を与える

2霊長類 子が母親にしがみつく

3真猿類 母親が子を抱く

4ホミノイド 互いに見つめ合う

5人間 親子が離れ、子が仰向けで安定していられる

 

なるほどと感じざるを得なかった。

人間とチンパンジーの教育の差は、人間は教えるが、チンパンジーは教えないことにある。チンパンジーの子供はじっと大人を見ている。1年ほど見た後、同じ動作をする。

チンパンジーは言語能力を持つといわれているが、それに対して著者は留保的だ。言葉を本当にシンボルとして覚えているかどうかを判定する実験はなかなか難しいらしい。

色と文字が等価的に結びついているかどうかを調べるために、ストループ効果で研究しているが、まだ発展途上のようだ。

著者は様々な角度から人間とは何かという答えを与える。子供を共に育てる、あるいは群れ全体で育てなければ群れが維持できない。そこに人間の特徴がある。また、共感する能力をチンパンジーが持っていたとしても、人間のようには相手が望むことを想像できない。再帰的な想像能力が人間の特徴と言えるだろう。

エピローグとしてチンパンジーの保護活動と、アフリカの緑化について書かれる。「緑の回廊 チンパンジー」で検索すると出てくるらしい。

 

そのほか、チンパンジーは人がかかる病気のほとんどに罹患することが興味深かった。また、心理学の実験で、目はなぜ一つではなく二つか、なぜ縦ではなく横についているのか、というような問いが一見哲学的に見えたとしても、全部経験論的、進化論的に説明できるという著者の話が面白かった。

 

全体的に非常に面白かった。後半になると読みづらい部分も出てくるが、それもまた本作りの想定内だろう。軽い砕けた言葉が使われる箇所があるのも、そういう本作りの狙いだろう。 

『植物は考える』 大場秀章

12月 『植物は考える』 大場秀章  KAWADE夢新書

奥付 1997年9月1日

『皮膚は考える』みたいな本を期待して読んだ。また、植物のことに興味があった。

2時間を何回かに分けて話したものを土台にして本書ができているようだから、少しぎこちないところもあったが、面白く読むことができた。

面白かった話は次のようなもの。

植物が二つ並んで同時に成長していく際、葉が相手にかぶろうとするタイミングで、横に広がるのではなく、より上に伸びるようになる。

葉の影が相互に影響しているのかと一般的には思われるだろうし、自分もそう思ったが、実はそうではなく、葉の影が相手に届く前に、植物は相手からそれるように、そして上に伸びるように成長を始める。

どうやら、緑色の物体を感知し、判断しているらしい。緑色のブロックをとなりにおいても同様の現象が起きることがわかっている。

植物は、細胞一つひとつが目鼻口といった感覚器官の役割をしているのだという。外界を知覚して、コミュニケーションを取ろうとする。その一つが、フィドンチットと物質効果だ。ブルーマウンテンと呼ばれるコーヒーがあるが、これは実際にモヤがかかって青く見える山からきているらしい。このブルーマウンテンは、植物がフィドンチットを出すことによる。新緑がではじめたころ、虫に対抗するために、アルコールが入った物質を放出するのだ。これが人間にはとても心地よいらしい。

そのほかにも、アレロパシーと呼ばれる現象も面白かった。植物も人間と同様、活動すると排泄を行うとでも考えると良いだろう。同じ土地に居続けると、汚染物質が溜まって植物は成長できなくなる。他の植物が生えず、やがて自分も枯れてしまう植物もあるという。生命は不思議だ。日本では雨が多く降るので、比較的この現象は弱いらしい。

ほかにも、アラビアの山に鬱蒼とした森があるという。砂漠にもかかわらず、空気中の水分が結露する場所で、この結露のみで大きな森になっているという。

熱帯のランの話も良かった。このランは、ハチの雌にそっくりな花を咲かせる。雄はそれを実際の雌と錯覚し、花に寄り付いて花粉を運ぶというわけだ。しかもこのランは、たった1種類のアシナガバチしか相手にしないことである。何かの理由でアシナガバチが絶滅したら、このランも絶滅するかもしれない。リスクは大きい。しかし、まるでその擬態はハチを利用するためではなく、花に止まるハチに恋い焦がれた結果のようにさえ思える。虫と植物は確かに関係して進化してきたが、それは結果としてそう見えるだけで、やはり別々に進化している。それが、偶然にお互いを必要とするかのように進化したように見えて面白い。