くもり空の形而上学

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映画 『偽りなき者』 感想 

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原題:Jagten

2012/デンマーク 上映時間115分

監督・脚本:トマス・ビンターベア

脚本:トビアス・リンホルム

撮影:シャルロッテ・ブルース・クリステンセン

美術:トーベン・スティー・ニルスン

衣装:マノン・ラスムッセン

編集:アンヌ・ストラッド、ヤヌス・ビレスコフヤンセン

音楽:ニゴライ・イーイロン

出演:マッツ・ミケルセン、トマス・ボー・ラーセン、アニカ・ビタコプ、ラセ・フォーゲルストラム、スーセ・ウォルド、ラース・ランゼ、アレクサンドラ・ラパポート

 

 

2年前の映画の感想を今書くのもどうかと思いますが、お許しください。

 

邦題では「偽りなき者」となっていますが、原題、英題では、「狩り」というタイトルです。

ささやかな子供の嘘からはじまり、性的虐待者のレッテルを貼られて追いつめられていく独身男性の映画です。

その追いつめられる恐怖や不信感に強烈な緊張感があります。なんとも「狩り」というタイトルにふさわしい感じだったので、原題と邦題のずれはやや残念に感じました。

 

ところで、この映画の始めに、虐待されたと嘘をついた子供クララと、主人公の関係が抽象的に示されているように感じました。子供は地面しか見ず、迷うものだ。それに対して、大人が前を見て、道しるべとなってあげようと。(ところで、ここでクララ=子供がその時の状況で行動する不安定な存在だと印象づけています。)

この描写で、単にフィクションを作っているだけではなく、シーンにはメタメッセージを込めていますと示唆しているように感じました。

作品解釈をしたがる僕に取って、こういうのは大好きです。

 

さて、その解釈です。

細かいところをすっ飛ばしますが、この映画を見て、誰かを攻撃する際に、それが善悪ではなく狩りの本能によるのだと主張しているのではないか、そんな気がしました。そしてそれはとても怖いものだと。狩りのスイッチが入るかどうか、獲物がそこまでくるかどうかの問題なのだと。はたしてこのスイッチをそもそも通電遮断しておくことはできるのか、そんなことを考えました。この映画では、多分それは無理だと言うのでしょう。狩りのスイッチは常に入っており、あとは獲物がそこにくるかどうかだと。

 

この攻撃本能は善悪の問題ではないと言ったことについてもう少し説明します。

性的な虐待をする人に対して過剰な攻撃を加えたのは、主人公に取ってはとても容認しがたいことではあるのでしょうが、裏を返せばそれほどまでに社会的正義に熱心な人たちであり、信頼に値する人間だということになるのではないかと。

悪意によって人を攻撃するのではなく、自分たちが正しいとそれぞれが思っている中で起きた悲劇なのだと、映画は印象づけることに成功している気がします。

誰が嘘をついているとか、間違っているとか、はっきりさせることを映画は避けます。主人公も否定はするものの、強く訴えているわけではありません。普通であれば何度でも繰り返し否定するはずなのに、ぼんやりと「君は僕を変態だと思うのか」というような形で否定するだけです。(もとの言葉のニュアンスでは違うのかもしれませんが)

 

善悪を映画は宙づりにしたままで進行するので、なんでこんなことが起きてしまったんだろう、はやく誤解が解けてほしいとじれったく思う人は少なくないはずです。これは、どちらの言い分にも共感を持てるようにとのことだと思います。そうして、攻撃行動へ移ったのは、変なスイッチが入ってしまったからだと感じさせるように成功しているわけです。

相手の言い分の理解とその対決から攻撃行動が発生したのではなく、コミュニケーション不在の中で、しかもコミュニケーション不可能な局面で、攻撃行動が発生している。このあらがいがたさを強く印象づけています。

映画は、最後まで誤解が解けたカタルシスを感じさせることはなく、かえって主人公がまわりへ不信感を増大させていることを表現していきます。

 

最後、周囲との和解のあらわれとして、息子の猟師免許取得に対して、村人がお祝いを開きます。息子と主人公は狩りにいきますが、その時に、主人公は獲物を待ちなさい、必ずくると言います。印象的なシーンです。つねに人間は発砲準備ができていて、そこに獲物が居合わせていないだけなのだと。

最後に主人公が自分に向けて発砲されたように感じて呼吸を乱すシーンは、妙な説得力とインパクトを持っており、人間の暴力性や本能と言ったものを考えさせられるくらい衝撃的でした。

 

面白い映画でした。演技もカメラワークも素晴らしかった。