くもり空の形而上学

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【ゲンロンカフェ】セカイ系は2010年代も生き残るか【感想】

今日ゲンロンカフェに行ってきました。さやわかさんと前島さんの発言はもともと気になって追いかけていたので、夢の組み合わせで楽しめました。

残念なことにお二人の近著はまだ読んでいませんでしたが、本を読んでいなくとも楽しめました。お二人の文化への愛が深いからこそ楽しく盛り上がったのでしょう。

 

さて、今日はざっくりとした感想を。

 

まずタイトルにある、セカイ系は生き残るか、ということですが、セカイ系はもうとっくに終わっている、という結論が先に提示されました。うむその通り。と思うと同時に、潔すぎて笑ってしまいました。いい最終回だった。

 

ただ、それでは話は終われません。セカイ系とは何だったのかという問いが残ります。そして、これから形を変えていくのかというようなことも。

 

セカイ系は何なのかという答えは、自意識の文学ということでした。表現としてはオーソドックスな自意識の小説、青春小説と類似します。例えば『人間失格』のような。

手あかのついたものにも関わらず、それではいったい、なぜセカイ系という新しいものとして注目されたのか。その理由こそが大事ではないか、と提案されます。

そして、いまセカイ系サブジャンルになり、これからも消滅はしないが、こじんまりと生きていくだろうと。

この、「セカイ系はもう終わった。新しいものでもはないにもかかわらず新鮮なものに感じた。そして細々と残るだろう」、というのが、セカイ系に対する共通認識だということになるでしょうか。

では、セカイ系について語れることは何か。なぜあれほど熱中した人たちを生んだのか、なぜムーブメントになったのか。そういったことは、きっと本に書いてあるのでしょう。今回はあまり語られませんでした。本に期待することにして、私自身の経験に即して思ったことを書いてみたいと思います。

 

私が中学生の頃にエヴァンゲリオンが放送されました。友人がかなりの割合ではまっていたのを覚えています。ジャッキーチェンが大好きでいつもジャッキーの下敷きを使っていた竹内君が、いつのまにか綾波の下敷きに変えていました。ジャッキーと綾波のどっちを取るのだと聞いたところ、「決まっているじゃないか、綾波だ」と答えました。彼はジャッキーに憧れるあまり、体を鍛え抜き、筋肉隆々で防衛大学まで行った人間です。その彼が、綾波こそ我が命と断言するのは、私に取ってかなり衝撃でした。しかし、彼の悔いのない爽やかな笑顔は一生忘れません。

私は竹内君や相山君にビデオを借りたものの、エヴァンゲリオンにはまることはありませんでした。というのも、ドストエフスキーの『罪と罰』にはまっていたからです。『カラマーゾフの兄弟』や『悪霊』を読みあさっていた私に取って、こういうと失礼なのですが、エヴァンゲリオンは物足りなく感じたのです。

 

しかしながら、アニメなどは見ていなかったけれども、文学の延長でセカイ系を感じていたことは確かでした。例えば、桜井亜美に代表される、当時の幻冬舎の小説をむさぼるように読んでいたのです。

 

ここでまずひとつ言えることがあります。それは、『罪と罰』で感じていた私の世界観と、エヴァンゲリオンといったセカイ系の世界観とは、実は似ているのではないかということです。すなわち、エヴァンゲリオンなどの特定のコンテンツがセカイ系の引き金になったのではないのではないか、エヴァンゲリオンは強力かつ象徴的な例にすぎず、何かセカイ系時代の雰囲気を規定した特異点があるのではないかということです。

 

たとえば、地下鉄サリン事件や、阪神大震災をあげることができると思いますし、バブル崩壊やそれにともなう憂さ晴らしとしての援助交際などもあげられるでしょう。携帯の普及やIT技術の変化も上げられるでしょう。そして、どれか一つが特異点ではなく、全体的な影響だったことも、おそらく確かでしょう。

 

しかし、特異点を何か一つ上げるとしたら、実は、「風の谷のナウシカ」こそがセカイ系の原点なのではないか、と提案してみたい欲求にかられます。

 

セカイ系にいろいろ定義があると思いますし、議論の蓄積をふまえないで雑なことを言うのは避けたいのですが、私自身は「世界の重さを背負っていること」こそがセカイ系の本質なのではないかと思うのです。

なぜセカイの重さを背負えるのでしょうか。どうしてそのような自意識が出てくるのでしょうか。

私が小学生くらいの頃からでしょうか。やたら環境問題が取り上げられ始め、教科書でも目につくようになりました。そこには必ず個人の意識がセカイを変えると行ったことが書いてあった気がします。例えば、洗剤を無駄に使うなとか、ノンフロンのものを選べとか。小さなことですが、私自身の経験から言うと、セカイのカタストロフは、自分の振る舞いにかかっているように感じたものでした。

 

そのように環境問題と個人の意識の関係を増強させている中、金曜ロードショーなどで「風の谷のナウシカ」を観るわけです。いまでも大好きな素晴らしい物語ですが、今はその自己犠牲性と、メシアへの掛け金の大きさゆえあまり好きではなくなった作品です。

それくらい、世界の救済を一人の自己犠牲の振る舞いにかけている作品です。感動的な音楽が流れる中世界の破滅と救済が描かれ、文句なく心に響きました。ナウシカのように自分を犠牲にしてセカイを救えと。そして、実際に、自分の振る舞いがセカイの破滅や救済と直結するという感覚がありました。スプレーの無駄遣いが空を壊し、紙の無駄遣いが地球を砂漠にすると。そういえば、ドラえもんでも、環境問題をテーマにした「アニマルプラネット」が作成されたのは私が小学生の頃でした。

 

環境問題と自己犠牲といった素地があって、初めてセカイ系というものができたのではないでしょうか。そして、この「セカイ規模の環境問題とそれに向き合う自己犠牲的ナウシカ」が年齢を重ね自己表現として噴出し、その実態をとらえようとした動きがセカイ系だったのではないでしょうか。

 

すなわち、セカイ系とは自意識の文学ではなく、「セカイを重いと感じる」文学なのではないかと。これは生きづらさなどの重さではなく、「石油があと何年で枯渇する」とか、「オゾンホールに穴があいた」とか、そういったことを言われたときに感じる「セカイの重さ」なのです。

 

以上、大まかなセカイ系に関する感想でした。

 

おやすみなさい。吹雪