くもり空の形而上学

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【魔法少女まどか☆マギカ】 博愛が生む愛 【叛逆の物語】

こんばんは。まくらことばというバンドをやっているしがない編集者の吹雪です。

 

タイトルの映画を見たあと、何が描かれているのかしばらく考えて、映画を原作にした漫画を何度も読んでみて、理解し消化しようと努めてきました。

でも、答えの出ないもやもやのようなものをずっと感じ続けていました。(いまもなお)

 

入り込めない、感動しきれない、知りたくてたまらない言葉があるのに教えられていない、そんな感覚を感じていました。なにかもどかしいのです。

 

正確に表現する自信がありませんが、

それは、まどかから、「愛の告白を聞いていない」ということにつきるのではないかと思うのです。

ほむらの狂おしいほどの愛に共感すればするほど、まどかの感情の不在(恋愛感情の不在?)、感情の呼応の不在に、いいようのないもどかしさを感じるのです。失恋よりも、もっともどかしく、きついものというか。

相手がどう思っているのか知りたいというもやもやというか。

 

 

そもそも、まどかは個人的な愛を告白するのでしょうか。

つまり、唯一の存在を愛するのでしょうか。

もしそうだとしたら、唯一の存在のために世界を敵に回してしまうかもしれない。

その場合、まどかは世界を救う祈りを持たないのかもしれない。

逆に言うと、救済の博愛を持つまどかは、おそらく唯一の存在を愛することはないのかもしれない。

 

ほむらは、博愛を持つまどかだからこそ、まどかのことを好きになったのかもしれない。たとえ愛されないとわかっていたとしても。

 

そうだとしたら、映画の最後でほむらが流した涙は、そのようなまどかへの理解と愛を訴えてやまない気がします。そして、その涙は、私にそう簡単には表現できない感情を引き起こします。

 

博愛ゆえにほむらを愛さないまどか。

しかも、まどかは、おそらく誰よりもほむらを愛しているのは確かなのです。

しかし、それは神の愛で、唯一ではない。そのうえ、だからこそ、尊く、至上で、それゆえ、博愛は、悪魔になってしまうほどの愛を生んでしまう。

まどかの博愛があるからこそ、自らの愛に苦しみ、魔女化し、悪魔にまでなってしまったほむら。

 

 

相思相愛をハッピーエンドとする物語を、超えてしまう愛の世界が、これから描かれるのかもしれない。

それはまどかが概念を創造したように、私たちの常識を揺さぶるのかもしれません。

しかし、どんな痛みを引き受けようとも、それを見届けたいと思います。