くもり空の形而上学

ジャパンカルチャーや茶道、日常のことなど雑多に書きます

『IKEAモデル』 アンダッシュ・ダルヴィッグ

IKEAモデル―なぜ世界に進出できたのか

IKEAモデル―なぜ世界に進出できたのか

 

仕事の都合で読んだ。仕事が忙しかったのと、翻訳はやはり読みづらく、時間がかかってしまった。

 

・イケアはダイバーシティと社会貢献に取り組むことで、事業が継続できるという。

・44カ国で、12万人以上が働いている。

・採用では経験や実力だけでなく、価値観の共有を重視している。

・貧困の問題に取り組む最良の方法は、イケアのような優良企業が雇用を生み出すこと。

・イケアの方法をサプライヤーに遵守させるため、第三者機関に逸脱していないか世界中のサプライヤーを調査させた。

・イケアは上場企業ではないので、長期的視点に立つことができる。

・長期にわたりオーナーが変わらないので、一貫性が育まれる。

・経営幹部を車内から登用することで安定性が確保され、成功の前提条件が確実に共有される。

発展途上国サプライヤーにおける環境と労働条件に対する懸念は、顧客その他の利害関係の間で高まる一方だったので、社会問題を2000年に前面に押し出し、供給戦略を立てた。

・児童労働に断固として反対している。

・日本のホルムアルデヒドの基準は、参入当時は他の国よりも非常に厳しく、他の国の2分の1だった。

・この本の著者は自由競争を大いに推奨している。

・イケアは非公開企業であり、より正確に言えばオランダの財団。1982年にこの構造が整えられた。創業者イングヴァル・カンプラードは、のちの世代が会社を分割や売却をするリスクを取り除くことで、イケアの将来を保証するため、もうひとつは節税のため。イケアの親会社はインカ・ホールディングBVで、これをスティヒティング・インカ・ファウンデーションが所有し、さらにこれをイケア・ファウンデーションが所有するという構造を持っている。

 

全体的な感想

どのタミングでロシアや中国に進出したか、また各国での参入状況・障壁がよくわかった。アメリカでの成功が話されているが、広く浅い記述のため、ストーリーに感情移入はしづらい。人物伝記というようなものではない。貴重な記録だと思うが、整理されていない印象。分量に比べて繰り返しも多いので、斜め読みでも大丈夫。

『脳に刻まれたモラルの起源』 金井良太

脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)

脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)

 

 社会心理学では、倫理観を記述する概念として次の5つの道徳感情が根幹をなしていると提案されている。
「傷つけないこと」「公平性」「内集団への忠誠」「権威への敬意」「神聖さ・純粋さ」

これらは「根源的な倫理観の要素」(モラルファンデーション)と呼ばれている。我々の倫理的規範はこの5つの倫理基盤に帰属すると、米国バージニア大学のジョナサン・ハイトを中心とした社会心理学者たちが提唱してきた。(21ページ)

 

現代の政治心理学の発展において中心的な役割をはたしてきたのは、ニューヨーク大学のジョン・ジョスト。

 

保守的な人が持つ恐怖に対する鋭敏な感覚は、視覚のレベルでも知られている。……政治的にリベラルな人と保守の人が、他人の顔をどのように認知しているかを調べた研究では、保守的な人は同じ顔を見ていても、その人が「脅威である」と感じる度合いが強いようである。(32ページ)

 

この政治的信条の脳研究は、政治的信条という一見高次な理性に基づく信念だと思われていたものが、もしかすると脳の構造という生物的な特徴にその基盤があることを示唆する。

……

「三つ子の魂百まで」を地で行く例なのだが、三歳時点の性格から、二〇年後の政治的性向が予測できるという研究結果が発表されている。……リベラルな大人になる子どもたちは、三歳のときすでに問題に直面した時に乗り越える能力を発揮し、自発的で表現豊かで、独立心が強いという特徴があった。一方、保守的な大人になる子どもたちは、不確かな状況に置かれると居心地悪く感じ、罪の意識を感じやすく、怖い思いをすると固まってしまうような子供だった。(39ページ)

 

オキシトシンを吸入することで、他社の気持ちを表情から読み取るという共感力も一時的に向上させることができる。(48ページ)

オキシトシンには嫉妬心を高めたり、他人の失敗を見て喜んだりするようになるという報告もある。(49ページ)

オキシトシンを吸入した後は他人を信頼しやすくなり、投資ゲームでも投資行動の上昇がみられた。

 

実のところ、このような薬など使わなくても、人間には自然にオキシトシンをださせることができる。ハグ(抱擁)などのように、体の接触があれば、人間あh自然とオキシトシンを放出する。(51ページ)

 

石黒浩氏の開発している「テレノイド」や「ハグビー」といった遠隔コミュニケーションメディアでは、対話している相手との身体的接触に近い感覚を作り出せる。(54ページ)

 

この公共財ゲームを見ると、人間にはもともと信頼や共感が備わっているから、自発的に協力し合い、すべてがうまくいくのではないかという予想がみごとに外れる。公共財ゲームの参加者たちは、フリーライダーがいるために、他人と協力することをやめてしまう。

チューリッヒ大学のエルンスト・フェールらが行った研究では、このようなフリーライダーの行動を制するために、罰を与える制度の意義を実験により示した。(69ページ)

 

ゴシップの存在には、個人の利己的な非社会行動を抑制する働きがある。倫理的にやましいことを画策していても、それが世間に知れてしまってhあ問題になるという心理が働くことによって、思いとどまることがある。……アダム・スミスは「人間は経済的利益よりも、よい評判を求めている」と書いている。(76ページ)

 

人は、他人に見られているときと見られていないときで行動が違う。これを心理学では「観客効果」という。(77ページ)

 

イギリスで行われた実験。紅茶を飲んだら自主的にお金を寄付する制度になっていた。そこに、花と目のポスターを交互に貼るようにした。そうすると、花よりも目のポスターを貼った時の方が寄付が多かった。

 

ベンサム自身は、功利というものをお金というよりは、心理的な快楽や苦痛を除くという観点から考えていた。実際に『立法と道徳の原理序説』の中では、快楽と苦痛の心理的状況をリストアップしている。そのような主観的感覚としての快楽を最大西、苦痛を最小にすることを善だと考えたわけである。だから功利(Utility)というのは、そもそも金銭的な利益だけではなく、心理的な主観的感覚のことだったのである。(84ページ)

 

オックスフォード大学のラシュワースらの研究。

このサルの研究により、大きな社会集団の中で生活しているサルほど、社会性と関わる脳の部位が大きく発達するということが確認された。

……

さらに興味深いことに、この前頭前野の大きさは、サルのオス同士の上下関係とも相関していた。つまり、この部位が持つ社会性の脳機能が、サルが社会の中で成功し上位の立場を獲得するのに役立つようなのである。(94ページ)

 

孤独感は遺伝するということが、行動遺伝学の双子研究により示されている。(98ページ)

 

幸福には、二つの側面がある。一つは、感覚的な快楽のことで、<ヘドニア>という。それとは別に、自己実現の喜びや生きる意味を感じることでえられる幸せもある。これは<エウダイモニア>と呼ばれる。(101ページ)

『和える』 矢島里佳

和える-aeru- (伝統産業を子どもにつなぐ25歳女性起業家)

和える-aeru- (伝統産業を子どもにつなぐ25歳女性起業家)

 

 仕事の必要上、また、伝統産業と現代的な感覚で起こした企業の結びつきが気になって読んでみた。

もう少し伝統工芸に対する思い入れを話してもらっても良いかと思う。

『近代政治哲学:自然・主権・行政』 國分功一郎

 メモ・気になった点

ホッブズの想定する自然状態では、人間観の能力の差を克服可能な相対的なものとしたはずで、スピノザの個性の発揮の論理とは相いれないと思うが、どうだろうか。
スピノザホッブズの論理を、ホッブズの内部で別の方向に展開したと評されているが、スピノザ的なものを認めないことにホッブズの「万人の自然権」があるのではないか。諸能力の差異化を禁じたからこそ、徒党を組む帰結が出てくるのだから。

 

1章 ジャン・ボダン 

引用

封建国家を考える上で避けて通れない書物に、フランスの歴史家マルク・ブロックの『封建社会』がある。……封建時代のヨーロッパでは、領主や家族、村落共同体や家臣集団などの上に、より広い範囲におよぶ様々な権力がそびえ立っていた。ところが、「それらの上位権力は、広域支配の代償として、長いこと、実効性に乏しい活動しかできなかった」。(17ページ)

→江戸時代の統治について最近読んだことと一致していて面白い。

 

封建国家の網の目状の統治機構を実際に形作っているのは契約関係である。……封主が契約に違反したと判定されれば、封臣たちは封主に対する一切の義務から解放され、封主に対して実力で反抗することも可能であった。つまり、封建的契約関係とは、確かに支配と服従の関係だが、そこには、封主と封臣の対等の関係があった。(20ページ)

 

封建国家には新法の制定という意味での立法の観念それ自体が存在しない。……つまり、国王の支配は国王と直接に契約している直属の封臣のみにおよぶのであって、一般人民との直接の関係は存在しない。(23ページ)

 

近代初期のヨーロッパは宗派内戦に苦しんだ。近代国家体制はそれに対する様々な反省の上に生まれたものである。しばしば、近代国家は1648年のウェストファリア条約をもって始まると言われるが、これは、ヨーロッパで最後にして最大の宗教戦争となった30年戦争に終止符を打った条約である。(26ページ)

 

ボダンは、主権の行使を「臣民全体にその同意なしに法律を与えること」と定義することによって、主権に立法権としての規定を与えたのみならず、立法権という概念そのものを創造したとも言えよう。……現代ではこの言葉は「国民主権」あるいは「人民主権」という言い回しによって、民主主義の根幹に位置付けられており、こういってよければ、ある種の”清潔”なイメージを持っている。ところが、この概念は血みどろの宗派内戦から生まれたものである。それに期待されていたのも、君主に対するあらゆる反抗を上から抑えつける機能だった。(32ページ)

→主権の印象が真逆なのが面白い。

 

2章 ホッブズ

引用

ホッブズが自然状態について最初に指摘するのは、人間の平等である。ただし注意が必要である。これは、「人間には平等な権利がある」とか「人園は差別なく等しく扱われねばならない」といった意味で言われているのではない。そうではなくて、「人間など、どれもたいして変わらない」ということだ。

確かに他の者よりも腕力の強い人間もいる。少し頭のいい奴もいる。しかしホッブズによれば、そうした違いも、数人が集まればなんとかなる程度の違いでしかない。(43ページ)

→この指摘はのちのスピノザを論じるときと矛盾するように思われるから気をつけておく。

 

人間は能力において平等であって……徒党を組むしかない。……かくして、自然状態においては絶対に争いが避けられないという結論が導きだされる。(45ページ)

 

したがって自然権という際の「権利」とは、その語感が与える印象とは異なり、一つの事実を指していることが分かる。自然状態において、人は単に自由であって何でもしたことができる。その自由という事実そのものを自然権と呼ぶのである。

……

とはいえ、なぜこのような複雑な概念が必要になるのだろうか? なぜ事実として人間は自由であることが権利として確認されねばならないのか? それは、この権利を規制することで国家が創設されるという理論を確立するためである。(49ページ)

 

自然権の放棄を基礎とし、けいやくによって 生成する国家を、ホッブズは〈設立によるコモンーウェルス〉と呼んでいる。このタイプの国家にこのような特別な名前が与えられるのは、当然、別の仕方で生成するコモンーウェルスが想定されているからである。これとは別の仕方で生成する国家は、〈獲得によるコモンーウェルス〉と呼ばれている。(54ページ)

 

 社会契約論として有名な〈設立によるコモンーウェルス〉の論理は、いわば、既に国家の中に生きているものたちに服従の必要性を説くために持ち出された方便にすぎない。ホッブズ国家論の核心はむしろ、〈獲得によるコモンーウェルス〉にある。なぜならば後者こそは、相互不信から戦争状態、そして団体同士の併合合戦へ、という自然状態論の論理に、無理なく、整合的に位置付けられる国家像であるからだ。

……

〈獲得によるコモンーウェルス〉を中心に据えた国家論は、自然状態の克服を前提としていないことになる。(57ページ)

 

3章 スピノザ

自然権とは、確かにーーホッブズの言うようにーー自分の力を自分の思うがままに用いる自由である。だが、その力は当然のことながら、様々な条件のもとにある。魚は自らの力を思う存分に発揮して生きているであろうが、その力には、水中を泳いで生きるという条件が課されている。どんなに強く望んでも、魚は地上を歩いて生きることはできない。(75ページ)

 

ホッブズは極めてリアリスティックに市z年状態を描き出した。けれども、そこには少々不純物が紛れ込んでいる。ホッブズは自分で斥けたはずのものを自然状態に持ち込んでいる。「恐怖によって結ばれた信約は義務的である」という考えは、自然状態ではあり得ないはずの義務の観念を前提にしているからだ。

 スピノザはここでもまた、ホッブズよりも上手にホッブズの概念を扱っている。(79ページ)

 

王は権限が強くなれば強くなるほど統治の実際から遠ざかっていくということだ。(93ページ)

→百姓の江戸時代にも同じことが書いてあった。

 

4章 ロック

ロックは「自然法」という言葉を用いて、それは「すべての人類に、〈一切は平等かつ独立であるから、何人も他人の生命、健康、自由、または財産を傷つけるべきではない〉ということを教える」と述べている。

……

自然状態について、そこには「何々すべき」と命じる法が有効に作用していると述べることは、したがって、こっそりと何らかの権威、強制力、論理を密輸入していることを意味する。つまり、ここに用いられている「自然状態」という言葉は虚偽である。(108ページ)

 

ロックは自然状態において所有権を認めたという主張によって有名である。(110ページ)

 

5章 ルソー

ルソーを読んでいると、まるで一般意志の内容を確定して、そこから個別具体的な政策が導き出せるかのように考えてしまうことがある。そのような解釈に基づいて、ルソーの社会契約論を現代風にアレンジしようという提案もある。しかし、ここで注目するべきは、ルソーが、一般意志は個別的な対象に対しては判断を下せないと繰り返し述べていることである。(156ページ)

 

一般意志の行使とは、主権の行使のことであった。後に見るように、主権の行使とは法律の制定である。(157ページ)

 

6章 ヒューム

ヒュームによる社会契約論への批判の出発点は実にシンプルなものだ。人間はさほどエゴイストではない、人間はそれほど利己的ではないーーこれがその出発点をなす。(178ページ)

 

黙約は正義をもたらし、正義は所有制度を安定させ、そして所有制度は占有、先占、時効、従物取得、相続といった一般規則によって構成される。(189ページ)

→黙約とは社会的慣習のこと。

 

社会契約論は、人々が自分たちで社会を作り出すという発想に貫かれていた。しかしヒュームによれば、社会が動き出すためには、黙約の形成という時間のかかる過程が不可欠なのだ。(196ページ)

 

7章 カント

カントの政治哲学が見出せるのは、「歴史哲学」の中。

 

では、人類が「道徳的存在者」として、自然から強制されている〈文化の目的〉とは何か? それは「普遍的に法を司る市民社会を実現すること」と定義されている。簡単に述べれば、法の支配が確立した社会の実現である。(207ページ)

 

共和的体制と民主的体制はいつも混同されているが、これらは区別されねばならない、と。つまり、各国家が目指すべき政治体制は、「民主的」な体制ではないというのだ。

 我々は望ましい政治体制のことを、ボンヤリと「民主的」という言葉で名指してしまう。カントは、我々のそうしたボンヤリとした判断ーーカント自身の言い回しを借りれば、「通俗的な理性の密かな判断」ーーに含まれる問題を明らかにしようとしている。(217ページ)

→カントが明らかにしようとしたことは、厳密な意味の民主制では、全員が行政に関わり、どのような判断も全員の判断とされること。それは専制へとつながる可能性がある。みんなで決めたことだからというように。だがそう考えると民主主義とはなんだろうか。全員で決めたのだからと常になんらかの専制を行い、排斥するプロセスなのだろうか。

 

彼らの議論から引き出されるべき今日的課題が見えてくる。

 近代の政治哲学は、行政に対する鋭敏な感覚を持ちつつも、やはりそこでは立法権中心主義とでも言うべき視座が支配的であった。それゆえに主権を立法権として定義することの問題点はじゅぶんには考察されてこなかった。だが、実際の統治においては、行政が強大な権限を有している。

 ならば、主権はいかにして行政と関わりうるか、主権はいかにして 執行権力をコントロールできるか、これが考察されねばならない。(239ページ)

『つながりを煽られる子どもたち』 土井隆義

 引用

私もアドバイザーとしてかかわったNPO法人「子どもとメディア」の2013年調査によれば、「ネット以外に自分の居場所がある」「ネット以外に熱中していることがある」「人間関係に恵まれている」と答えた小中高の児童生徒のほうが、そうでない子どもよりもケータイやスマホの使用時間はいずれも長い傾向が見られました。実態をよく知らない大人たちは、リアルな生活が充実していない子どもたちが、ネットの世界に耽溺してしまうのだろうと考えがちです。(18ページ)

 

ネット依存の程度を図ろうとするとき、いま世界で最も頻繁に利用されているのが心理学者キンバリー・ヤングが開発した尺度。

 

今日のコミュニケーション能力は、多種多様な商品が行きかう自由市場の貨幣と同等の役割を果たしているともいえます。貨幣さえあればどんな商品とも交換できるように、コミュニケーション能力さえあればどんな他者とも関係を取り結べるからです。(30ページ)

社会心理学者のシーナ・アイエンガーが行った実験で、24種類のジャムと、6種類のジャムの試食スペースを作ったところ、24種類の方が試食をしたが、買ったのは6種類のほうが多かった、とのこと。

 

今は内キャラ(自分自身が見せたいキャラ)も外キャラ(他人によってつけられるキャラクター性)によって駆逐された。(71ページ)

 

新聞記者の小国綾子さんは、生きづらさを抱えた若者や子どもの取材を長年にわたって積み重ねてこられた方。中学時代は自分もリストカッターだった。

 

引用

臨床心理学者の河合隼雄さんの言葉を借りれば、私たちは教育を行うとき、知的なレベルでは「個の倫理」に訴えようとしますが、実践のレベルでは「場の倫理」を優先させてしまいがちなのです。(『大人になることのむずかしさ』岩波現代文庫、2014年)(82ページ)

 

感想

教育のむずかしさや若者の扱いづらさを問題化しているように見受けられるが、そもそも問題なのか、疑問。

『社会を結びなおす』 本田由紀

社会を結びなおす――教育・仕事・家族の連携へ (岩波ブックレット)
 

 これまでの家族・仕事モデルが通用しなくなったので、新しいモデルが必要だという本。仕事はワークライフバランスと女性活用、家族はそれに対応したモデルとなる。

グラフなど見たことがあるものばかりだが、手際よくまとめられているので、高校生の勉強会などには有用だとおもう。

 

『百姓の江戸時代』 田中圭一

 

 

百姓の江戸時代 (ちくま新書)

百姓の江戸時代 (ちくま新書)

 

 学会で相手にされなかった怨みがあるように感じた。

 文章が後半になるほど読みにくくなる。固有名がたくさん出てくるので、簡略化するよう工夫すべきところだったと思う。ナントカ村を村としたり、余計な装飾をはぶき、想像力で補うようにすればよかったのでは。他にも役銀などの専門用語が出てくるが、説明がないのでこれも読みづらさの一因になっている。きちんとした校正に出していなかったのか、あるいは編集でカバーしきれなかったのかと思う。はしがきがあるのにあとがきがないのも気になる。

江戸時代は武士の時代であり、身分制度が厳格で、百姓は重い年貢を課され苦しんでいたという常識を覆さんとする力作。もう15年も前の本なので、いまではこの本の見解の方が常識的なのかもしれないが、それなりに新鮮に読んだ。

 

メモ

書き出しは良い。タイを訪れた話から、工業と農業のバランスの話を描き、また対戦中の日本の話につなげて、武家の世の中では、圧政でみんな苦しんでいたかというとそうではないというストーリーを助走させている。

 

幕府が長続きしたのは、権力を振るうことなく時代の成り行きに任せたからである、というのは面白い。

 

享保の改革の時、検見性(けみせい)から定免性に替わった。これは不作の時もあるので、税収を一定にし、幕府の税を増やす目的だとかつては考えられていたが、実は、検見性がいかに政治腐敗を引き起こしているか百姓が訴え、それに対応する形で定免性が認められたというものにすぎない。

 

その後、今度は、定免性をやめると幕府が通告した時、国を挙げての反対一揆があった。これは、税収が検見性に戻って減ることを恐れたわけではなく、約束を一方的に破られたことに対する反対らしい。これはやや善意に解釈しすぎかなと思った。やはり税収が減るから定免性にしてくれと請願したと思うし、税種が増えるから強烈に団結して反対したのだと思う。

 

検知によって百姓は土地を所有することができた。永代売買は禁止されたが、期間付きで売買され、それが質に流れて実質的には無力な禁止令だった。このように、江戸時代の禁止令などは守られていないものが圧倒的に多い。ここからも、幕府の力を大きく見積もりすぎないように注意する必要がわかる。

 

 厳しい身分制が存在すると言われながら、庶民が武士になることも、武士が仕立て屋になることも簡単にできた。

 

村の中や村同士の対立は、村の中の掟を決める過程で解決&調整された。問題が解決不能な時に役所に訴え、それでもダメなら幕府に訴えるということをしていた。江戸時代の法律は、こうした百姓の動きの中から出てきたもの。幕府が明確な政治方針を持っていたわけではなかった。

 

水飲み百姓のようなイメージは部分的に正しくなく、初めから農業以外のことをやろうと考えてよその土地へ移動した百姓も多かった。そういう百姓が所有地を持っていなかっただけ。

 

開墾のイメージは、自分の家の近くの荒れ地をコツコツ耕すようなイメージだが、そういうものだけではなく、もっと大事業も多かった。

 

名主は制度上の上では幕府の支配の末端に位置する、しかし、17世紀の終わりには、この位置付けは相当揺らぎ、村の名主を決める際、長百姓と平百姓が争い、平百姓がなることもよくあった。この名主の変質こそ、社会の転換契機として注目すべき。 農民は豊かになり、力を持っていろいろ意見を言えるようになったということ。

 

かように生活者を中心として法律ができてきたのだから、山や海の資源を生活者のために保存するルールがたくさんできた。それが村の掟でそれにそぐわないと村八分になった。海は公共のもの、だからワカメを誰がとってもいい、という議論が出て、ワカメが枯渇したという話が昭和30年代の佐渡にあるらしい。エセ民主化論争として著者は大批判。それには共感する。

 

農民はあまった土地やあまった余力を商品作物の生産に割いたと思われがち。しかし、商品作物の生産を専門的かつ意識的に行っていた。最初から商品作物の生産があった。自給自足する百姓イメージとはズレる。

 

こうして、百姓は自らの力で時代を切り開くまでになっていた。

 

 感想

想像していたものと違ってやや期待はずれ。とはいえ常識をひっくり返そうとする意気込みは伝わり面白い。

ただ、その時の証拠にあげる事例に逆に突っ込みたくなることも。検見性をやめたのは増税するためという一般論に対して、やめて増税できるならなぜもっと早くやらなかったのか、と反論しているが、定免性だと数年間の石高を平均する必要があるため、すぐにできなかったとも考えられる。

このように、いくつか疑問を残したままあわただしく進んでいくので、頭に入りづらかった。また、各章の出だしもはっきりとした問題設定やストーリーがないので、散発的な話題が次々に出てくるようで、文脈を読む想像力が働きづらく、読みづらかった。これは勿体無く感じる。