くもり空の形而上学

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『近代政治哲学:自然・主権・行政』 國分功一郎

 メモ・気になった点

ホッブズの想定する自然状態では、人間観の能力の差を克服可能な相対的なものとしたはずで、スピノザの個性の発揮の論理とは相いれないと思うが、どうだろうか。
スピノザホッブズの論理を、ホッブズの内部で別の方向に展開したと評されているが、スピノザ的なものを認めないことにホッブズの「万人の自然権」があるのではないか。諸能力の差異化を禁じたからこそ、徒党を組む帰結が出てくるのだから。

 

1章 ジャン・ボダン 

引用

封建国家を考える上で避けて通れない書物に、フランスの歴史家マルク・ブロックの『封建社会』がある。……封建時代のヨーロッパでは、領主や家族、村落共同体や家臣集団などの上に、より広い範囲におよぶ様々な権力がそびえ立っていた。ところが、「それらの上位権力は、広域支配の代償として、長いこと、実効性に乏しい活動しかできなかった」。(17ページ)

→江戸時代の統治について最近読んだことと一致していて面白い。

 

封建国家の網の目状の統治機構を実際に形作っているのは契約関係である。……封主が契約に違反したと判定されれば、封臣たちは封主に対する一切の義務から解放され、封主に対して実力で反抗することも可能であった。つまり、封建的契約関係とは、確かに支配と服従の関係だが、そこには、封主と封臣の対等の関係があった。(20ページ)

 

封建国家には新法の制定という意味での立法の観念それ自体が存在しない。……つまり、国王の支配は国王と直接に契約している直属の封臣のみにおよぶのであって、一般人民との直接の関係は存在しない。(23ページ)

 

近代初期のヨーロッパは宗派内戦に苦しんだ。近代国家体制はそれに対する様々な反省の上に生まれたものである。しばしば、近代国家は1648年のウェストファリア条約をもって始まると言われるが、これは、ヨーロッパで最後にして最大の宗教戦争となった30年戦争に終止符を打った条約である。(26ページ)

 

ボダンは、主権の行使を「臣民全体にその同意なしに法律を与えること」と定義することによって、主権に立法権としての規定を与えたのみならず、立法権という概念そのものを創造したとも言えよう。……現代ではこの言葉は「国民主権」あるいは「人民主権」という言い回しによって、民主主義の根幹に位置付けられており、こういってよければ、ある種の”清潔”なイメージを持っている。ところが、この概念は血みどろの宗派内戦から生まれたものである。それに期待されていたのも、君主に対するあらゆる反抗を上から抑えつける機能だった。(32ページ)

→主権の印象が真逆なのが面白い。

 

2章 ホッブズ

引用

ホッブズが自然状態について最初に指摘するのは、人間の平等である。ただし注意が必要である。これは、「人間には平等な権利がある」とか「人園は差別なく等しく扱われねばならない」といった意味で言われているのではない。そうではなくて、「人間など、どれもたいして変わらない」ということだ。

確かに他の者よりも腕力の強い人間もいる。少し頭のいい奴もいる。しかしホッブズによれば、そうした違いも、数人が集まればなんとかなる程度の違いでしかない。(43ページ)

→この指摘はのちのスピノザを論じるときと矛盾するように思われるから気をつけておく。

 

人間は能力において平等であって……徒党を組むしかない。……かくして、自然状態においては絶対に争いが避けられないという結論が導きだされる。(45ページ)

 

したがって自然権という際の「権利」とは、その語感が与える印象とは異なり、一つの事実を指していることが分かる。自然状態において、人は単に自由であって何でもしたことができる。その自由という事実そのものを自然権と呼ぶのである。

……

とはいえ、なぜこのような複雑な概念が必要になるのだろうか? なぜ事実として人間は自由であることが権利として確認されねばならないのか? それは、この権利を規制することで国家が創設されるという理論を確立するためである。(49ページ)

 

自然権の放棄を基礎とし、けいやくによって 生成する国家を、ホッブズは〈設立によるコモンーウェルス〉と呼んでいる。このタイプの国家にこのような特別な名前が与えられるのは、当然、別の仕方で生成するコモンーウェルスが想定されているからである。これとは別の仕方で生成する国家は、〈獲得によるコモンーウェルス〉と呼ばれている。(54ページ)

 

 社会契約論として有名な〈設立によるコモンーウェルス〉の論理は、いわば、既に国家の中に生きているものたちに服従の必要性を説くために持ち出された方便にすぎない。ホッブズ国家論の核心はむしろ、〈獲得によるコモンーウェルス〉にある。なぜならば後者こそは、相互不信から戦争状態、そして団体同士の併合合戦へ、という自然状態論の論理に、無理なく、整合的に位置付けられる国家像であるからだ。

……

〈獲得によるコモンーウェルス〉を中心に据えた国家論は、自然状態の克服を前提としていないことになる。(57ページ)

 

3章 スピノザ

自然権とは、確かにーーホッブズの言うようにーー自分の力を自分の思うがままに用いる自由である。だが、その力は当然のことながら、様々な条件のもとにある。魚は自らの力を思う存分に発揮して生きているであろうが、その力には、水中を泳いで生きるという条件が課されている。どんなに強く望んでも、魚は地上を歩いて生きることはできない。(75ページ)

 

ホッブズは極めてリアリスティックに市z年状態を描き出した。けれども、そこには少々不純物が紛れ込んでいる。ホッブズは自分で斥けたはずのものを自然状態に持ち込んでいる。「恐怖によって結ばれた信約は義務的である」という考えは、自然状態ではあり得ないはずの義務の観念を前提にしているからだ。

 スピノザはここでもまた、ホッブズよりも上手にホッブズの概念を扱っている。(79ページ)

 

王は権限が強くなれば強くなるほど統治の実際から遠ざかっていくということだ。(93ページ)

→百姓の江戸時代にも同じことが書いてあった。

 

4章 ロック

ロックは「自然法」という言葉を用いて、それは「すべての人類に、〈一切は平等かつ独立であるから、何人も他人の生命、健康、自由、または財産を傷つけるべきではない〉ということを教える」と述べている。

……

自然状態について、そこには「何々すべき」と命じる法が有効に作用していると述べることは、したがって、こっそりと何らかの権威、強制力、論理を密輸入していることを意味する。つまり、ここに用いられている「自然状態」という言葉は虚偽である。(108ページ)

 

ロックは自然状態において所有権を認めたという主張によって有名である。(110ページ)

 

5章 ルソー

ルソーを読んでいると、まるで一般意志の内容を確定して、そこから個別具体的な政策が導き出せるかのように考えてしまうことがある。そのような解釈に基づいて、ルソーの社会契約論を現代風にアレンジしようという提案もある。しかし、ここで注目するべきは、ルソーが、一般意志は個別的な対象に対しては判断を下せないと繰り返し述べていることである。(156ページ)

 

一般意志の行使とは、主権の行使のことであった。後に見るように、主権の行使とは法律の制定である。(157ページ)

 

6章 ヒューム

ヒュームによる社会契約論への批判の出発点は実にシンプルなものだ。人間はさほどエゴイストではない、人間はそれほど利己的ではないーーこれがその出発点をなす。(178ページ)

 

黙約は正義をもたらし、正義は所有制度を安定させ、そして所有制度は占有、先占、時効、従物取得、相続といった一般規則によって構成される。(189ページ)

→黙約とは社会的慣習のこと。

 

社会契約論は、人々が自分たちで社会を作り出すという発想に貫かれていた。しかしヒュームによれば、社会が動き出すためには、黙約の形成という時間のかかる過程が不可欠なのだ。(196ページ)

 

7章 カント

カントの政治哲学が見出せるのは、「歴史哲学」の中。

 

では、人類が「道徳的存在者」として、自然から強制されている〈文化の目的〉とは何か? それは「普遍的に法を司る市民社会を実現すること」と定義されている。簡単に述べれば、法の支配が確立した社会の実現である。(207ページ)

 

共和的体制と民主的体制はいつも混同されているが、これらは区別されねばならない、と。つまり、各国家が目指すべき政治体制は、「民主的」な体制ではないというのだ。

 我々は望ましい政治体制のことを、ボンヤリと「民主的」という言葉で名指してしまう。カントは、我々のそうしたボンヤリとした判断ーーカント自身の言い回しを借りれば、「通俗的な理性の密かな判断」ーーに含まれる問題を明らかにしようとしている。(217ページ)

→カントが明らかにしようとしたことは、厳密な意味の民主制では、全員が行政に関わり、どのような判断も全員の判断とされること。それは専制へとつながる可能性がある。みんなで決めたことだからというように。だがそう考えると民主主義とはなんだろうか。全員で決めたのだからと常になんらかの専制を行い、排斥するプロセスなのだろうか。

 

彼らの議論から引き出されるべき今日的課題が見えてくる。

 近代の政治哲学は、行政に対する鋭敏な感覚を持ちつつも、やはりそこでは立法権中心主義とでも言うべき視座が支配的であった。それゆえに主権を立法権として定義することの問題点はじゅぶんには考察されてこなかった。だが、実際の統治においては、行政が強大な権限を有している。

 ならば、主権はいかにして行政と関わりうるか、主権はいかにして 執行権力をコントロールできるか、これが考察されねばならない。(239ページ)