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くもり空の形而上学

ジャパンカルチャーや茶道のこと、編集者の日常ことなど雑多に書きます

ウズベキスタンに行って考えた表現の自由と初音ミク

こんにちは吹雪です。

 

9月11日から一週間ウズベキスタンに行ってきました。

ガイドに日本のイメージを聞いたところ、「ああ、もちろん。日本大好きだぜ! なんたって、技術とニンジャがすごい!!」とのこと。音楽について知っているのはSMAPくらい。日本語ガイドなのに、あまり日本のことを知らないのかとちょっとがっかりしました。

それから、旧ソ連時代と現在の比較を色々と尋ねたり、今現在のウズベキスタンと世界に対する見方を聞いたのですが、奥歯にものが挟まったような返答しか返ってきません。

どうやら政治的なことに関して発言するのはタブーなようです。大統領を批判すると、非国民扱いになるくらいだと聞きますし、そういった隠ぺい体質は旧ソ連の名残があるのでしょう。

しかも政治だけでなく、どうやら入ってくる情報がすごく限られているようなんです。じぶんから積極的に集める人は違うのかもしれませんが、ロックバンドが国内ではないとCDショップでいわれましたし、スクリーモといったようなジャンルもいまいちわからなかったみたいでした。

やっぱり情報が限られているから、ニンジャやSMAPと発言したのだと思いました。こういった情報の制限においても表現の自由について考えさせられることがあったのですが、今回お話ししたいのは、少し別の角度から見たことなんです。

 

独自の芸術があるのは繰り返す美徳があるから。だけど…。

UZ(ウズベキスタン)はイスラム教が主な宗教で、古くからある街を修復しながら、おそらくずっと昔の暮らしを踏襲して今も生活しています。伝統の服装を今も身に着けており、砂漠の土の色をした壁と煉瓦を使った色彩の統一のある街並みと、青いタイルの装飾が非常にきれいで、景観をうらやましく感じる日本人も多いと思います。

しかし、メドレセといった建物の装飾や、伝統の絵柄のお皿などが、よく見ると仕上がりが雑で、緊張感と集中力がないように感じる人も少なくないでしょう。装飾や美術品が、ずっと見ていると、同じものの再生産の繰り返しのように感じ始め、情熱がどこにもこめられてないように見えて、気がめいってきました。美しいものを作るというより、家庭の事情などを考えて仕事に絵描きを選び、習熟し、勤務時間だけやっている、そんな感じなのです。せっかく素晴らしいデザインと色彩を持っているのにもったいない、と残念に感じ、美しいものに対する情熱を見出せないと一端思い始めると、工芸品がすごくノイジーに見えたのです。

 たしかに、何かをずっと同じままで持ち続けることは難しいものです。そしてそれを美徳とすることは、資本主義の生活圏内で、常に結果と変化を求め続けている私自身、とても重要で貴重なことのように思えました。しかしながら、日本人がめまぐるしい日々にあくせくしてうんざりしている生活の中にも、幸せのための作法があると改めて思ったのです。

 

砂漠の幸福な人々は、何かを待ち望むだけかもしれない

ディテールにこだわらず、再生産することをよしとし、変化を嫌う傾向は、UZの国民性だろうと思います。見渡す限り地平が続く平らな土地の、坂道のない街並みの中で、心は広々と開放的に優しくなるんだろうなと思いますし、照りつける太陽と乾燥を避けて、木陰でお茶を飲みながら農作物を売っているのをみると、あくせく働くことはかえって無理が来てよくない環境なんだなと思います。友達と話し込んでみんなよく笑い、とても幸せそうで、うらやましく感じました。

しかし、彼らは仕事中にもかかわらず、携帯電話で話をしたり、パンを食べたりしています。それがのんびりしていていいことだと思う意見もよくわかるのですが、しかし、実は彼らには、自分と友人以外の人間が見えていないのではないかという気がして仕方がありませんでした。見えないひとへの気遣いがないように感じたのです。他者の不在と言えばそれまでのような気もしますが、なんだか正確に表現しづらいものがあります。

たとえば、ウズでは菓子パンのようなものはほとんどありません。そういったものを作ってもだれも喜ばないし、意味がない、と考えるようです。しかし、よく食べるものだからこそ、何か工夫して人を驚かせたり、喜ばせたりと思う感覚もどこかにあってもおかしくないのではないか、そう思いました。この、何か少し工夫をして驚かせたり喜ばせたりしたいという気持ちの不在を感じたのです。喜びは、収穫のように待つものであって、作り出すものではないというような。

 

スカイライナーの美学

日本に帰ってきて、成田からスカイライナーに乗ったのですが、この電車のあまりにも静かで速い乗り心地に感動して涙が出ました。電車を静かなものにしようという発想、客の満足な顔が見たいとか、驚く顔が見たいとか、あるいはプライドにかけてもやりたいとか、そういった気持ちによってその発想が支えられているのだとまざまざと感じました。

この、他者への独特の気遣いこそが、日本を動かしているものであり、クリエイティビティだと感じました。そして、うがった見方かもしれませんが、ウズにはなかったものです。

確かに、日本にいるときに、ひとりぼっちだと感じたり、仕事がきついとか、友達付き合いの微妙な空気の読みあいなどに疲れる人もいると思います。確かに、生きづらいかもしれません。でも、それでも社会が回っているというのは、この見えない気遣いと創造性によって、知らない間にお互いを支えあっているのだと思ったのです。そう思えると、街並みが新しいものに見えました。

日本には独自の環境があり、その中で、できるだけお互いのことを支えあっているのだと。そしてそれが創造性に結びついているのだと。そして、この創造性は、他者を驚かせたりしたいという、自分の常識を少し超え出る自由を可能にしているのだと。

それで長くなりましたが、本題の初音ミクです。

 

初音ミク表現の自由の象徴、表現の自由の、本当の意味

ウズに行くまでは、初音ミクは、思いを歌ってくれるクリエイターの味方くらいにしか思っていませんでした。しかし、ウズに行って、情報が制限され、習慣を踏襲する傾向が強い文化に触れてみると、表現の可能性がいかに解放されているか、初音ミクを見て感じずにはいられませんでした。

日本社会の、だいたい同じような国道沿いの似たような風景で育ち、多くの人と似たような教育を受けてそだった人間に、何か語りたくなった時に、特別に自分だけが語れることは何だろうかと胸に手を当てて考え、格闘し、何かをひねり出したとしても、それが特別だと思えず、価値のあることだとはなかなか思うことができません。ありふれた言葉ばかりが、手のひらからこぼれていくだけです。そして、何も言うことができず、あきらめて舞台に明かりをともそうとも思わなくなる。おそらく、それが当たり前なんだと思います。ウズでも同じような気持ちを抱えている若者がいると思います。

しかし、どんな言葉でも価値があるものだと肯定し、きっと力になれる、私の声を使ってみて、誹謗中傷も私の声でかき消して見せる、と言ってくれたのが初音ミクなのです。そしてそれが一つのシーンになってしまったのが日本なのです。

これ以上に、私たちを肯定してくれるものはあるでしょうか。人間とは芸術という過剰なものを抱え込んでしまった動物だと思います。その過剰なものは、過剰という言葉通り、世界に向かってあふれ続けていくものだと思うのです。その過剰さを、肯定する力を、日本は本質的に持っているのだと、そう思いました。

マジカルミライを見て、初音ミクは私たちにとても優しいと書きましたが、もう一度その言葉をかみしめることになりました。そして、もう一度、繰り返したい言葉があります。

本当にありがとう、初音ミクさん。

 

 

最後に、ウズはまた訪れたい素晴らしい国だったことを繰り返しておきます。