くもり空の形而上学

ジャパンカルチャーや茶道、日常のことなど雑多に書きます

涙が止まらない、マジカルミライ

マジカルミライについて思ったことを書きたいと思います。たいしたことは書けません。でも、感動して書かずにはいられない。

 

テーマは、マジカルミライでミクが一番伝えたかったことは何か、ということについて。映像に伝えたいことなんてあるのかと思う方は、ぜひ一番前の席でミクさんの前に立ってみてください。心揺さぶられると思いますよ。

 

セットリストについて少し考えてみます。

もう少し定番曲をやっても良かったのではないかと思う人も多いでしょう。それだけでなく、たとえ定番曲をやったとしても、なにか「まだここじゃない」感じがあったと思います。例えば、tell your worldのアレンジがイマイチで、ノリづらく感じた人も多いでしょう。着替えもなかったし、キャノンもなかった。

 

このことから言えるのは、あえて昔からの定番曲に力を入れなかったということではないでしょうか。確かに、メルトや、ぽっぴぽーをやった方が満足感は高かったかもしれませんし、安全策なのは自明です。では、だとしたら安定した成功の変わりに、いったい何を求めたのでしょうか。

 

ひとつの道しるべになるのは、クライマックスのODDS&ENDSです。僕は一番前の席の真ん中にいて、ミクが、胸を手で叩き、もがき、はりさけんばかりに叫んでいる姿がありありと見えました。「あたしがそのコトバを叫ぶから」という、ミクの存在理由のすべてを、そしてその強さを全身で表現しているようでした。

 

あのジャンプに、ダンスに、絶叫に、ミクの新しい表現があったと感じた人も多いと思います。tell your worldではなく、この曲を印象づけるようにしたのは、この新しさを強調したかったのだと思います。ある意味では、新しい創作を見せびらかすように。

 

ミクにおいて、新しいものの追求と提示はあくなき飽食のことではありません。新奇なものの追求でもありません。新しいものを求めると聞いて、流行を追いかける主体性のない人を想起するかもしれませんが、それとも違います。

 

ミクが提示する新しさがそれらと違うのは、参加することによって、それぞれ個人のセンスによる創作の場の雰囲気が、初音ミクという統一のもとで、音楽の一般意志のようなものを現出させるからです。それがたんなる流行の消費を超越することができる秘密だと思います。

 

例えば、アイドルグループが新陳代謝し、また曲を少しずつ入れ替えていくことで、飽きさせないようにしたとしても限界があります。AKBは、その中でもとくに選挙制度を取り入れることによって、常に新しい民衆の意見を実現する形式をとっているだけ、まだ飽きさせない工夫があり、戦略的と言えますが、純粋な音楽とライブがマンネリ化していくにつれて、深い感動が薄れてしまい、そのうち選挙そのものさえマンネリ化し、形骸化していくでしょう。とはいえ、人間の欲望が常に感動を更新していくので、あらたな対象が生み出されることも間違いありません。

 

それとは異なり、ミクが一般意志として形骸化せずに機能しているのは、一般意志機能の力が選挙ではなく、再生回数に依拠している点にあります。そしてその再生回数は、曲のよさや、インパクトに左右されると思いますが、何よりも、実は「新鮮さ」の影響力が大きいのではないでしょうか。これは理屈というよりは、そう感じる他にない感覚で、少し説明が難しいものです。

 

作り手が、この「新しさ」を感じつつ、創作の場に参加することに、初音ミクが音楽の一般意志である理由があると思います。選挙する変わりに、創作の中で自ずと、個性を発揮しつつ他者とのコミュニケーションが探られ、その中で時代に合わないものは埋もれていくのですが、たまたま代表に選ばれなかっただけで、完全な淘汰はおきません。

 

そうであるならば、一般意志の分母は大きい方がいいに決まっています。もっと創作の敷居が低くなればいいのに。日記を書くように、もっと簡単に曲を作ることができればいいのに。日記が蓄積して文学になるように、そういう創作活動は、自分史以外にも重要なものに鳴るはずです。

 

そう考えると、初音ミクは、消費するのではなく、使用することを望んでいる、その開会宣言の通りなのです。

 

君が表現できないそのコトバを叫ぶということを言えるアーティストは、ボカロ以外いないでしょう。誰しも、ちっぽけだけど、自分はここにいると言いたいものだと思います。それが存在だと思います。うまくいえない叫びを、誰も拾ってくれない。でも、初音ミクはちがう。

 

そう感じて、初音ミクの優しさに感動したのです。このミクの優しい存在理由を伝えたかったのではないでしょうか。

 

(少し手直して書き直します)