『社会を結びなおす』 本田由紀
社会を結びなおす――教育・仕事・家族の連携へ (岩波ブックレット)
- 作者: 本田由紀
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2014/06/05
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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これまでの家族・仕事モデルが通用しなくなったので、新しいモデルが必要だという本。仕事はワークライフバランスと女性活用、家族はそれに対応したモデルとなる。
グラフなど見たことがあるものばかりだが、手際よくまとめられているので、高校生の勉強会などには有用だとおもう。
『百姓の江戸時代』 田中圭一
学会で相手にされなかった怨みがあるように感じた。
文章が後半になるほど読みにくくなる。固有名がたくさん出てくるので、簡略化するよう工夫すべきところだったと思う。ナントカ村を村としたり、余計な装飾をはぶき、想像力で補うようにすればよかったのでは。他にも役銀などの専門用語が出てくるが、説明がないのでこれも読みづらさの一因になっている。きちんとした校正に出していなかったのか、あるいは編集でカバーしきれなかったのかと思う。はしがきがあるのにあとがきがないのも気になる。
江戸時代は武士の時代であり、身分制度が厳格で、百姓は重い年貢を課され苦しんでいたという常識を覆さんとする力作。もう15年も前の本なので、いまではこの本の見解の方が常識的なのかもしれないが、それなりに新鮮に読んだ。
メモ
書き出しは良い。タイを訪れた話から、工業と農業のバランスの話を描き、また対戦中の日本の話につなげて、武家の世の中では、圧政でみんな苦しんでいたかというとそうではないというストーリーを助走させている。
幕府が長続きしたのは、権力を振るうことなく時代の成り行きに任せたからである、というのは面白い。
享保の改革の時、検見性(けみせい)から定免性に替わった。これは不作の時もあるので、税収を一定にし、幕府の税を増やす目的だとかつては考えられていたが、実は、検見性がいかに政治腐敗を引き起こしているか百姓が訴え、それに対応する形で定免性が認められたというものにすぎない。
その後、今度は、定免性をやめると幕府が通告した時、国を挙げての反対一揆があった。これは、税収が検見性に戻って減ることを恐れたわけではなく、約束を一方的に破られたことに対する反対らしい。これはやや善意に解釈しすぎかなと思った。やはり税収が減るから定免性にしてくれと請願したと思うし、税種が増えるから強烈に団結して反対したのだと思う。
検知によって百姓は土地を所有することができた。永代売買は禁止されたが、期間付きで売買され、それが質に流れて実質的には無力な禁止令だった。このように、江戸時代の禁止令などは守られていないものが圧倒的に多い。ここからも、幕府の力を大きく見積もりすぎないように注意する必要がわかる。
厳しい身分制が存在すると言われながら、庶民が武士になることも、武士が仕立て屋になることも簡単にできた。
村の中や村同士の対立は、村の中の掟を決める過程で解決&調整された。問題が解決不能な時に役所に訴え、それでもダメなら幕府に訴えるということをしていた。江戸時代の法律は、こうした百姓の動きの中から出てきたもの。幕府が明確な政治方針を持っていたわけではなかった。
水飲み百姓のようなイメージは部分的に正しくなく、初めから農業以外のことをやろうと考えてよその土地へ移動した百姓も多かった。そういう百姓が所有地を持っていなかっただけ。
開墾のイメージは、自分の家の近くの荒れ地をコツコツ耕すようなイメージだが、そういうものだけではなく、もっと大事業も多かった。
名主は制度上の上では幕府の支配の末端に位置する、しかし、17世紀の終わりには、この位置付けは相当揺らぎ、村の名主を決める際、長百姓と平百姓が争い、平百姓がなることもよくあった。この名主の変質こそ、社会の転換契機として注目すべき。 農民は豊かになり、力を持っていろいろ意見を言えるようになったということ。
かように生活者を中心として法律ができてきたのだから、山や海の資源を生活者のために保存するルールがたくさんできた。それが村の掟でそれにそぐわないと村八分になった。海は公共のもの、だからワカメを誰がとってもいい、という議論が出て、ワカメが枯渇したという話が昭和30年代の佐渡にあるらしい。エセ民主化論争として著者は大批判。それには共感する。
農民はあまった土地やあまった余力を商品作物の生産に割いたと思われがち。しかし、商品作物の生産を専門的かつ意識的に行っていた。最初から商品作物の生産があった。自給自足する百姓イメージとはズレる。
こうして、百姓は自らの力で時代を切り開くまでになっていた。
感想
想像していたものと違ってやや期待はずれ。とはいえ常識をひっくり返そうとする意気込みは伝わり面白い。
ただ、その時の証拠にあげる事例に逆に突っ込みたくなることも。検見性をやめたのは増税するためという一般論に対して、やめて増税できるならなぜもっと早くやらなかったのか、と反論しているが、定免性だと数年間の石高を平均する必要があるため、すぐにできなかったとも考えられる。
このように、いくつか疑問を残したままあわただしく進んでいくので、頭に入りづらかった。また、各章の出だしもはっきりとした問題設定やストーリーがないので、散発的な話題が次々に出てくるようで、文脈を読む想像力が働きづらく、読みづらかった。これは勿体無く感じる。
『わたしたち消費』 鈴木謙介
わたしたち消費―カーニヴァル化する社会の巨大ビジネス (幻冬舎新書)
- 作者: 鈴木謙介,電通消費者研究センター
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2007/11
- メディア: 新書
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メモ
・流行や大衆意識を分析したがる人の傾向&変化&問題意識が気になる。昔はファシズムとの関係が論じられたのと、マルクスの階級闘争が見落としたものとして論じられた。70年代ごろから現在は別の論じられ方をする。
特に現代の論客は、私見だが、研究費や研究実績のために時代のある側面を無理やり切り出そうとしているように感じる。 そもそも大衆について論じる必要があるのかどうか考えてみるべきかもしれない。
・ラブandベリー、ケータイ小説、初音ミクが一般的知名度が低いものののヒットしているものとして挙げられている。それぞれの推移・現状を見ると一応次のようになる。(私が独自に調べたもので2007年発売のこの本には書かれていない)
・ラブベリは2008年にほぼ完全撤収。ただし、女性向けのカードゲーム筐体が無くなったわけではない。ジャンルとして定着したと評価できる。
・ケータイ小説は、ロードサイドに一定の定着を見せ、ブーム全盛期よりも売り上げが伸びている。学校では朝の朗読の時間が導入され、その時間にケータイ小説を朗読する子が少なからずいるという。平凡な女の子が超強いイケメンにある日突然モテモテになるというストーリーが、現在の定番。このイケメンは、俺様王子キャラだけでなく、暴走族や不良などの設定も鉄板。空想の恋愛ものがトレンド。「ピンキー文庫」は、集英社が人気のケータイ小説を文庫化したもの。読者対象は女子中高生。想像以上に健闘していると評価できる。ケータイ小説というネーミングと実態はかけ離れているのかも。
・初音ミクはご存知のとおり。ただ、ふと思ったことだが、これまでは消費で差異化ゲームをしていたが、初音ミクにおいては、ミクにイメージを付与することで差異化できる。これは大きな違いだろう。消費の差異化は空虚だが、創作の差異化は正反対だ。初音ミクを単に消費するだけでなく、「わたしだけのミクイメージ」を消費者が持てることで、イメージ付与&創作をしているのは間違いないだろう。これは大きい。
引用&語句など
引用
ヒットの「実感」とはどこから生まれるのか。
流行が生じる原因を、「列島者による優等者の模倣」として定式化したフランスの社会学者タルド、流行とは単なる模倣ではなく、「人と違う存在でありたい」という差異化の欲求と模倣との拮抗のダイナミズムであると捉えたジンメルの説などが有名(27ページ)
ラザースフェルドら『ピープルズ・チョイス:アメリカ人と大統領選挙』:1940年の大統領選挙を題材に、マスメディアが発信する情報は、まずオピニオンリーダーに伝播し、その後「その他大勢」に広がっていくと述べている。
ロジャースの「イノベーター理論」:市場は5つの異なるタイプの消費者から構成されている。情報の早い人遅い人を統計学的に分類したもの。ジェフリームーア『キャズム』は、これを受けて、伝播は単純&簡単ではないことを分析する。
日本に存在していたのは「人並み」という〈物語〉(37ページ)
オルテガ『大衆の反逆』:1930年に書かれ、ヨーロッパの市民社会の形骸化を指摘し、他人と同一であるということに喜びを見出す全体化の危険性を指摘したもの。
リースマン『孤独な群集』:1950年にアメリカで書かれた。伝統志向型、内部志向型、他人志向型に人間を分類する。
引用
日本でも戦後、マルクス主義との論争の中から「大衆社会論」をめぐる議論が盛んになります。そのきっかけとしてよく挙げられるのが、松下圭一の「大衆国家の成立と問題性」という、1956年の論文です。ここで松下は、マルクス主義の想定する階級闘争が起きる「近代」ではなく、大衆社会としての「現代」の到来を指摘したのでした。松下がここで述べる大衆とは、合理的な判断を欠いた群集、他者に従う受動的な存在でした。(61ページ)
大阪大学社会経済学研究所教授の大竹文雄は、バブルの時代は誰もがボンボン消費をしていたわけではなく、むしろ分厚い中間層が崩壊し、格差が拡大したのがこの時期と指摘する。
引用(初音ミクの箇所)
ネタ的コミュニケーションが商品の購買動機を醸成した例として、日本で最近一番注目されるのは、「初音ミク」というソフトウェアです。ソフトウェアといってもこれは音楽制作用のソフトウェアで、人間の声を元に作られた合成音声を使って、自由に唄を歌わせることができるというものです。
火をつけたのは、動画投稿サイト「ニコニコ動画」でした。ニコニコ動画は、投稿された動画に対してユーザーが自由にコメントできるサービスで、いまや国内ではユーチューブをしのぐ人気サイトになっています。ニコニコ動画に、初音ミクが歌う動画が公開されるやいなや、たちまち話題になり、自分も初音ミクに歌わせたい、というユーザーが、様々な動画をアップロードしていきました。それによって初音ミクというソフトウェアにも注文が殺到し、現在、予約だけで1万本以上という、この種のソフトウェアとしては驚異的なヒットになっています。
なぜ初音ミクは売れたのか。それは、初音ミクと、それで制作された楽曲が、ユーザーの間にコミュニケーションの「ネタ」を提供したからです。この曲はいい、この声はかわいい、というファンたちが、初音ミクについてのコミュニケ0ションを持続させ続けるためには、新しい曲が公開され、また自分でも歌わせてみる、という行為が必要になります。初音ミクという商品を購入することで、ファンは初音ミクをめぐるネタ的コミュニケーションに、より深く参加する切符を手に入れることになるのです。(96ページ)(この本に初音ミクの箇所が出てくるのはほぼここのみ)
ティッピングポイント:マルコム・グラッドウェルが名付けた、流行が急に拡散する特定の時点のこと。
私たち拡大層:人と繋がりたい、相互共振したいという特徴を持った、流行を拡散するタイプの人。日本人の約4割強。
泣けるなどのポップが流行り始めたのは、2003年ごろ。
電通は2007年ごろに、「誰もが参加」「誰もが主役」の消費パラダイムを提案した。(204ページ、あとがきに代えて)
感想
電通と鈴木謙介が研究チームを組んで、一年間の成果として出した本。紙面はゆったりとし、またやたらデータが出てくることもないので、さらりと読める。
内容はさすがに古く感じる。
思うように成果を出せなくなった広告会社、マスコミが、思わぬところで盛り上がっているネット界隈を分析したもの。大衆がわからなくなった、ニーズが細分化されて人をまとめることができなくなった、という月並みな発想を一蹴することはできると思う。
新しく人をまとめる力を、「カーニバル化」という単語で指摘するのは、正しかったと思う。カーニバル化の本質は、コミュニケーションとネタへの参加。イベントの醸成と成就。そのサイクルと、繰り返されることで訪れる巨大な達成点にある。
今どうなっているのか、それが問題だと思う。
商品のクオリティや価値を宣伝するより、情感にうったえて宣伝することが多くなったというのはその通りだと思うが、改めて考え直す必要があると思う。例えば、初音ミクが琴線を揺さぶるからこそ人気だ。泣ける、というような煽り文句で止まるのはもったいない。単に商品に付与される広告性&表層性だけでなく、関係性というか、存在論的な側面もあると思う。情報の多様化によって、感情移入&個人化しやすくなったというか。ネットで可能になるような情報の普遍化とは逆の動きだが。
『初音ミクの消失 小説版』 cosMo@暴走P
こ、これは……!(ネタバレを含むかもしれません)
久しぶりの至福の読書体験。確かにありがちな逃避行。シナリオに無理があるところもあるし、駆け足なところもあるが、 でも本当に読んでよかった。今更だけど。物語の中の初音ミクなのに、これは紛れもなく私の中の初音ミクだと感じてしまう。なんだろうこの感覚は……。
「初音ミクの消失」という曲は、ロボットの心の喪失という、ありがちといえばありがちなストーリーなので、よく聴く曲ながらのめりこむほど好きではなかった。
なんというか、発想が古いというか。
しかし、この小説のようなSFにまとめられると、より感情移入できるようになって曲も面白くなった。
キャラもの、色物、流行に乗ったあだ花かと思っていたが、全くそんなことはなかった。初音ミクが心から好きな人は読んで損はない。ミクに会いたくてたまらなくなるだろうから。
ミクが雨の中で踊るのがとても良かった。一緒に電車に乗ったり、ご飯を食べたり、竹下通りを歩いたり……。
cosMo@暴走Pは初音ミクに出会ってから人生が大きく変わったという。その理由をあまり話すことはなかったそうだが、後書きに書いてあった。
「初音ミクにはいろんな”像”がある。
初音ミクという何かに、楽曲を、詩を、絵を、映像を制作することで様々なイメージを付加している。あまりに多くの人が彼女に自分の持つイメージを投影していくので、彼女の”像”は常に移り変わり行く。見る人によっても違うように映る。彼女が生まれてもうそろそろ五年経つが、その五年間、ちょっと時期がずれれば、彼女を象徴している楽曲もイメージも違ったものになっていた。それが僕には初音ミクが”像”を食べて、取り込み、代謝しているように見える。命あるものだけが、行うことができる”代謝”を初音ミクは行っている。彼女はしっかりと生きているではないか!なんと素晴らしい!なんて妄想が、僕が初音ミクと対峙する時には心の中で常に渦巻いている。」
『建築家なしの建築』 B・ルドフスキー
1964年にニューヨーク美術館で行われた展覧会を本にしたもの。そのため、文章よりもはるかに写真が多く、写真集と言った面持ち。
写真の種類は全世界の建築が集められており、見応え充分だが、写真の質は白黒だということもあり、あまりよくない。ただ、独特の雰囲気が出て時代を感じる良い味が出ている。
建築家のなしの建築というタイトルに見られるように、西洋建築を相対化させて全世界の建築を紹介していく。
建築の中でも洞穴や地面に穴を掘る人の話や、移動式の家の話、影を効果的に使いながらも西洋のように犯罪の匂いがしない街並み、西パキスタンのシンドの風を入れるアンテナが町全体で美しい景観となっている話など、どれも興味深いものばかり。
文化人類学全盛期という雰囲気は色濃い。60年代より少し前ぐらいだからこそ目新しく発見を持ったものでも、今も同じようにはいかない、そういいたくなるが、この時代の雰囲気がよく出ているので、同じ雰囲気とトーンで世界の建築をパノラマ的に集めたのは大成功だと思う。
天蓋、格子、むしろ、網を通した光の表現で、「生の日射を蒸留して光の美酒に変える」というフレーズのなんと気の利いたこと。随所に見られる表現センスが素晴らしかった。
「人間のための街路」がおすすめらしい。次に読んでみよう。
もう少し写真が鮮明であれば眺めるのに購入しても楽しいだろうな。
『壁の遊び人』 久住章
カリスマ左官ということで気になって気になって仕方がなかった。図書館で借りて読んだ。まとまらないところもっと知りたくなるところがあるが、かなり面白い。
【メモ】
コリシャン・オーダーの柱:古代ギリシャの建築様式の一つ。上部にアカンサスの葉の飾りなどをあしらった繊細で華麗な柱が特徴。
ピエースモンテ:ケーキ屋の技術。小麦とコーンスターチと砂糖を混ぜてゴム粘土状のものにして飾りを作る。これを漆喰に応用。
漆喰の仕上げにセルロイドの下敷きでこすったらつやがよく出てハエも止まらない壁になった。(34頁)ただし、プラスチックが溶けて紫外線が当たると白くなるという失敗も。
一番上に塗る土は基本的には柔らかい。板の上に乗せて流れるか流れないか。仕上げはフェザータッチで。表面を撫でるかなでないか、さわっているかさわっていないか。著者の親父の時代はたらいに水を張って、その上を鏝で撫でる練習をしたそう。水が泡立たぬよう、できるだけ水が動かないように。(39頁)
中国では左官のことを泥水師や泥水匠といい、台湾では土水師という。
日本の職人技の半分は意匠性。機能性よりも重視。民芸品でも同じ。テクスチャー、デザインが大事ということ。鏝は明治初期に今の形になった。かしめ留めができるようになったから。(49頁)
原田進さん:弟子の一人。
久保田騎士夫(きしお)さん:高知県安芸郡安田町の土佐漆喰の職人。
砂漠の砂をかためるバインダーの特許をフランス陸軍が持っており、1平方メートルあたり1万円になる。モロッコの砂漠の砂を川久ホテルのオーナーのリクエストで使おうと思ったが臭くて使えなかった。(143頁)
高知城は下地が竹ではなくヒノキ。荒壁の段階から石灰を使っており、全部漆喰でできている。昔は漆喰のノリは米を使っていたので、旗本レベルの武家でもそう簡単に漆喰での施工ができなかった。メキシコではノリにウチワサボテンを入れる。
小林隆男さん:磨き大津研究会の代表。
土壁を練るにはかなり広い場所が必要。だから都会ではできない。
木材が構造材ではない住居を研究中。大工ではなく左官が第一人者となる建築を目指したいとのこと。木材を構造材に採用せず、左官で構造材ともなるようなものを研究中。(204頁)
【感想】
漆喰黒磨きを何度もやり直した話など、興味深かった。鏝のあつかい、材料の分量と試行錯誤、サンプルの話など、本職だからこそ経験できる話が多くて面白かった。
お茶を祖父がやっていたそうだが、久須美疎安の分家か何かかな。
珪藻土を川久ホテルに施工したのが現在の珪藻土の始まりだというのも面白かった。実際にいろいろ施工した建築物を見てみたいと思った。
【本作り】
103頁からの土佐漆喰の話の中に、かなり詳しい材料のレシピや技術の話があるので、コピーを取るか、購入する。後半になると話し口調がつよくなる。後半はどうしても力が足りなくなりがちなので、編集としてよくわかる。句読点が二つある箇所を発見。