くもり空の形而上学

ジャパンカルチャーや茶道、日常のことなど雑多に書きます

企業が求める「コミュ力」って、「女子力」並みにわけがわからん。というか、企業の優しさじゃね? という話

企業人事が求める能力の1位を独走しているのが、「コミュ力」らしい。

 

そこでわたくし、出版屋としては、『コミュ力をつける本』っていう書籍を出したいと、ちょっと考えるが、まあ、ほとんど売れない予感がする。

いや、断言する。これは売れない。

 

『読むだけで誰とでも30分楽しく喋れる本』という方が、かえって売れると思うし、『コミュ力ねーよと開き直ってかえって好かれる人の開き直り方』みたいな方が好まれると思う。

 

つまり、コミュ力そのものって、総合的すぎてレベルアップさせられないし、レベルアップを求めている人もそんなにいないと思うわけ。 

例えていうなら、バッターボックスに立つ前に「人間力を高める本」を読む、そんな感じ。大きすぎて、使えないですわな。

 

コミュ力ないなと悩んだ人であっても、解決しようとするときは、きっと「会話上達本」とか、「連絡メール術」とか、そういう具体的な知識で乗り越えようとするはず。

本の売れ行きを調べると、そんなことが予測されるわけ。

 

コミュ力」って便利な言葉だけど、実態を何も言い当ててないんじゃないか、そう思うわけです。

空虚な空文。女子力なみに、言ったつもりになっているだけで、言い当ててはいない。

 

 さて、企業が「コミュ力」を求めていると言い始めているのって、日本大丈夫かと心配したくなる。あってないようなものを当たり前に求める風潮ができているってことだと思うから。

 

でも、企業が「コミュ力」と言い出したことを、もう少し真面目に考えてもいいかもしれない、そう思うようになった。

 

言い換えると、こういうこと。企業がコミュ力を求めている、と言われて、なんとなくめんどくさい感じがするでしょう。わたし、げんなりしている若者のあなたに、まあ、こう考えてみてはいかがと伝えたいことがある。

 

わたくし思うに、これ、実は、あなたにパーリーピーポーになって、会社でウェイウェイwやりなさい、と言っているわけではないと思うの。

また、上司が口を開きかけるや否や、上司の言わんとすることを理解せよとするような、念能力者並みの超能力を求めているわけでもないと思うの。

それに、一見いじめと思えるような愛のムチに耐える忍耐力を求めているわけでもないと思うの。

 

じゃあ、企業がコミュ力を求めるって、なんでしょう。

 

これ、きっと、企業が「あなたとコミュニケーションとる準備ができてますよ」というアピールだと思うわけ。

心を閉ざさずに、こっちへおいで、色々相談しておくれ、ということなの。理屈から考えてもそうだし、いや、そういうことにしておこう。

 

 コミュ力を求めるって、実は日本の会社の優しさの表れなわけ。

 

明日も頑張りましょう。

和包丁を使いなさい

今回は、和包丁をごり押しするエントリーです。

 

料理好きで和包丁が気になっている方。

買おうと思ったものの種類が多くていまひとつ実感がわかない方。

そんな皆様にへ向けて書いています。

 

さて、最近お気に入りの和包丁の話を。

幼児食を食べている娘は、アジが大好きです。

小さめの切り身を焼いて冷凍しておき、ご飯のたびに解凍して食べさせています。

手づかみでパクパク。食べ終わると「アジ、アジ」と催促するくらいです。

 

 

娘が好きで体にもいいし、アジを常食にできたらいいなと思い、うまく捌けるようになりたいと思いました。

もともと、三枚に下ろすのは苦手ではないと思っていました。

小さい頃からよくやっていたし、アジの漬け丼を作ったり、鯛を捌いてお造りと鯛飯を作っているからです。

 

ところが、娘にアジの身を渡す時に、身がボロボロになって持ちづらいことに気づきました。

確かに、魚の身は、焼くと崩れるものです。

しかし、それ以上の崩れ方をする。冷凍庫へ入れる段階で、切り身ではなくほぐし身のようになってしまっている。

これは、三徳包丁で切る時に切りづらくて身をグッと抑えてしまい、身が潰れるからです。これまでの料理を振り返っても、身がボロボロになっていた気がします。

 

あとで説明しますが、これは包丁の切れ味の問題ではありません。刃の形の問題です。

そこで、色々考えた結果、これを買いました。 

 あ、このブログは、アフィリエイトなんかじゃありませんよ。メーカーや写真、スペックといった情報がわかりやすいので引用しているだけです。

 

舟行という包丁、漁師が舟の上で使ったと言われています。

そのため、魚をさばくための出刃包丁と、魚を刺身にするための柳刃包丁の中間のような包丁が便利だったのでしょう。揺れる舟の上で包丁を何本も使い分けるのは面倒そうです。

出刃包丁は分厚くて短く頑丈。

柳刃包丁は薄くて長いので一回包丁を引いただけで下まで切れる。

その両方の特徴をそこそこ兼ね備えた包丁が舟行包丁です。

 

さて、なぜアジをさばくのに舟行包丁を選んだのか。

それは、アジきりという小型の出刃包丁があるのですが、それよりも汎用性が高いかなと。普段の三徳包丁の代わりにも使いたかったのです。

例えば、葉っぱものをみじん切りにする時に、切れ味が悪いと潰れて緑色の汁が出て料理があまり美味しくなりません。舟行包丁なら、あまりそうはならないわけです。

出刃包丁よりも薄いので、小さな魚を下ろす時にも身がめくれるのに邪魔になりません。また、頑丈なので、大きな魚もさばけます。

 

そんな舟行包丁。いきなりこれを買うのもどうかと思いますので、柳刃をお持ちの方は、ぜひ、出刃や三徳の代わりに使ってみてはいかが。

 

さて、和包丁全般の使い心地についてお話ししましょう。

 

魚に限らず、野菜も肉も、木材をカンナで削るみたいに、すーっと身が離れます。これには感動しました。三徳包丁だと、「えい、えいっ」と力を入れてギコギコしないと切れなかったのが、和包丁ではズバッとさばけます。

魚をさばくとき、特に感じるのは、刃が骨と平行に入れ安いんですよね。三徳のような両刃の包丁だと、刃の部分と骨をくっつけるようにして切ると、骨と刃が平行にはならないし、平行にしようとすると、微妙に骨と刃に隙間が開くんですよね。あと包丁が外側に逸れていくというか。

 

もう一点、片刃の包丁は研ぎやすいです。べたっと表を砥石にあてて研いで、かえりが出たら、裏側をさっと1回砥石で撫でます。両刃は、裏も表も同じ角度で同じだけ研がないといけないので、難しい。使いづらい。

研ぐと切れ味が恐ろしいほどになりますよ。鋼の重みだけでトマトもネギも切れるようになります。

 

お手入れは、給湯器のお湯でじっくり流して、ふきんでさっとふくだけ。

水分が飛んだのを確認したら片付けます。神経質な人は油をさっと塗っても良いかもしれない。

 

お手入れも意外と楽で、切れ味も抜群。料理の美味しさが引き立ちます。研ぎやすいし、おまけに値段も安い。

 

和包丁、本当にいいですよ。迷っている人は、ぜひ。

 

 

 

 

茶道の話 石洲流 60 備忘録 【旅箪笥】

こんばんは、吹雪です。

最近は、ストレスが溜まりすぎて、将棋のコマを打ち付ける仕草をずっとしているよ!! 王手角成! 将棋最高!

 

早速ですが今日は旅箪笥でした。

これは利休が戦場でお茶をするために考案されたものとか。

でも実際にこの箪笥で運ぶと、道具が全部壊れちゃうよ!

 

 

備忘録です。毎回新しいことがあって覚えるのがたいへん。

 

まず旅箪笥に建水以外の道具をしまいます。

棗、茶碗、水差しは中央に。柄杓は合を中に向けてかける。蓋置は水差しと柄杓の間に。

蓋を閉めておく。

建水を持って入室。

建水を置いて、風炉の環を下ろす。旅箪笥の前に移動。

蓋の外し方は、左手を添えて、右手の親指で鍵を少し持ち上げ、そのまま手を横にして、親指と人差し指・中指でつまむ。そのまま蓋の表側に鍵を挿して、蓋を手前に引く。指一本ぶんくらい隙間が空いたら、蓋の3分の1ほど上のところを持って、手を滑らせるようにして蓋を下から持って外す。右手をそのまま滑らせて蓋のはじを持つようにし、旅箪笥の右側におく。手がかりを残すため、あまり奥に置かないこと。

そのあと、柄杓を両手で取り、左手で建水の上に置く。蓋置きを置いて、建水を少し下げる。棗、茶碗を取り出し、置き合わせの位置に置く。

蓋置と柄杓をいつものいちに置いたら、一服差し上げますと礼。その後手前は一緒だが、水差しの蓋を取る前に、旅箪笥の棚を持ち上げる。逆に、水差しの蓋置きを閉めたあとは、棚を下げる。棚の上げ下げは両手で。

手前が終わり、棗、茶碗などを置き合わせの位置に置いた後、柄杓、蓋置を建水の所におく。棗、茶碗、柄杓、蓋置きを旅箪笥にしまう。棗は右手。茶碗は右手で取り、両手で入れる。柄杓は左手で取り、両手で入れる。当然、節から下は持たないこと。蓋置は、右手で取り、左手で受けて、右手で水気を拭ってからおく。

蓋を閉める。両手で蓋を取り、下から手を滑らせるようにあげて上まで持ってしめる。左手を添えたまま、右手で鍵を閉める。親指を上にして鍵を抜くとやりやすい。

真ん中に移動して、建水を持って退出する。部屋に入ったら扉を閉めて、風炉を清め、退出する。

 

旅箪笥の蓋の扱いが大変だと思ったが、手順はわかりやすいかも。

お軸は、良寛さんの「雨の降る日はあはれなり」

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お花は鹿の子と山紫陽花でした。見てもわかりません。先生が教えてくれたのでございます。

 

鹿の子

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山紫陽花

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お菓子は紅屋さんの蛍が飛ぶ羊羹でした。

それではまた。

 

茶道の話 石洲流 59 備忘録 【桑小卓】

こんばんは。吹雪です。

今日は風炉の手前かつ桑小卓ということで、書かなきゃ覚えられないよ!

30分一本勝負! どこまで書けるかわからないけど記録に残しておきます。

 

・飾り付け

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(写真は炉の手前だけど基本は同じ)

・下の棚に建水が入っている。建水には蓋置きを入れる。

・柄杓は写真のように立てかける。

 

・手前の仕方

まずは茶碗だけを持って入室。茶碗だけを持つことになり、入室は1回だけなので、道具畳の前で、手前座の方に向かって座り、道具畳の中央に茶碗をおく。襖に向き直り、閉める。茶碗持って立ち上がり、棚の前へ。茶碗を持つ時も、右手でとり、左手で受け、両手で持って移動。

 

ここからが炉の点前と少し違う。

 

正面に座り、風炉の前に茶碗を仮置きする。茶碗を置くのは左手で。

風炉の環を下ろす。

棚の前に行き、建水を取り出す。炉とは違い、棚の右横から、右手の甲を上にして、手前に押し出すようにし、左手で受けて、壁付きに置く。

柄杓を右手と左手で掴み持ち上げると、左手を外して右手だけで棚の内側から取り出すようにする。その後、左手で受け、そのまま建水の上に置く。

 

棗を下ろす。

茶碗のところへ少しだけ体を向けて、茶碗を左手でとり、右手で受け、左手で持ち直して、置き合わせの位置に置く。

その後、手前は風炉の平点前と同じ。

 

拝見の挨拶の後、柄杓と蓋置きを建水に置き、薄茶器と茶杓を拝見に出す。その後、棚に向かって、柄杓と蓋置きを飾りつける。

建水だけ持って退出する。次は茶碗を持って退出する。このとき、建水の水を捨てて、飾りつけるために建水を持って入室する。建水を持って入室し、ふすまを閉めて、棚に向かう。棚に向かうと、左手で持った建水を体の正面で右手も受けるようにして、両手ですっと棚の下に入れる。手がかりを残すように、全部入れない。また、置くようにするのではなく、すっと押し込むようにする。

その後風炉に向かい、清めるなど、平手前と同じ。

 

花入は、唐津の中里太郎衛門さんの徳利でした。花は芍薬

お軸は、「天上大風」です。調べると、良寛さんの筆として名高いようです。

 

 

お休みなさい。吹雪でした。

茶道の話 石洲流 54〜58 備忘録 【茶碗の中の宇宙 樂家一子相伝の芸術 展覧会感想】

どうもこんばんは。吹雪です。

久しぶりにブログを更新しようと思ったら、前回の投稿は2月ですよ! 月日が経つのは一瞬だよ!!

 

書くことはたくさんあるんです。書く時間も、ないわけではない。ただ、優先順位が他に行ってしまっています。子育て、リフォーム、原稿、etc.

 

さて、今回、備忘録とは言いながらお稽古のことではなく、

タイトルにある「茶碗の中の宇宙」という展覧会の感想と、

お茶の家元が最近計画していることを書きます。

 

茶碗の中の宇宙展、ご覧になった方はいらっしゃいますか。

 

いやあ、想像以上に楽しめましたよ。

 

やはり、長次郎。この方の作品はとっても良かった。長次郎は楽茶碗はとても上手なのに、大皿はそんなに上手いとは思えませんでした。ろくろをうまく使えなかったから、手びねりで作ったのではないかとさえ思いましたが、きっとそんなことはないのでしょう。

 

長次郎作の中でも、目を奪われたのが、万代屋黒でした。

 

例えるなら、デスクトップ型のMacです。後ろが絶妙な角度で削ってあって、画面が平面に見えるアレです。

高台脇が絶妙なバランスで削られていて、落ちた影がうまく高台を隠し、まるで宙に浮いているかのように見えました。特に腰から胴にかけてグッと立ち上がった姿が、力強い存在の主張があると同時に、高台をうまく隠す錯視効果があります。この表現を可能にするためにも、腰を少し膨らませて作ってある。それによって、より一層、空中から茶碗がぐっとせり上がっているように見えるわけです。これは狙って作ってあるのだなと思いました。

この茶碗を畳においたらどうなるのだろうと、たまらない魅力を感じます。

 

お茶の大切な要素の一つに、「意外性」があると思います。例えば、季節に気づくときは、誰もがその季節の訪れの「唐突さ」に驚き、嬉しく思うはずです。「急に暖かくなった」「急に梅雨に入った」などなど。

お茶の中で季節感と向き合うことは、意外性を感じさせるものに気づき、その力を借りて演出することでもあると思います。

 

さて、長次郎の茶碗、畳の上に置かれてみると、きっと意外性があり、日常を超越する力を感じられるでしょう。

それは、お茶や道具の本質と向き合った結果として生まれたのだろうとなと思い、すごいなと感嘆した次第です。

 

さて、もう一つの話題です。

最近、お茶の家元から、「初音ミクにお点前をしてもらおう、吹雪さん、初音ミクを実体化するよう頑張ってください」と言われています。

 

 

この過疎ブログをご覧になった方、お力をお貸しください。

 

・スクリーンに初音ミクを投影することができる技術者

初音ミクのモーションが作れる技術者

初音ミクの動きと音楽をリンクさせられる技術者

 

を切実に求めています。

初音ミクのお点前が飲みたい、そのために力を貸します、という奇特な方は、ご一報ください。

僕と同じで、ボランティアでの仕事になるでしょうが、ミクさんのお茶を飲めるのは、きっと他にありません。

 

おやすみなさい。吹雪でした。

茶道の話 石洲流 50、51、52、53 備忘録 

こんばんは吹雪です。

忙しくて備忘録を書けずにいました。こんなことではいかん!と思いつつ、できる範囲でやります。

今日は新しいことも習いました。

 

前回と今回の記録。

前回は筒茶碗の扱いを習う。

筒茶碗は茶筅を逆向きに仕込む。茶巾も反対側に仕込む。

持つときは、右手で上からもち、左手に持ち直して、右手でおくようにするのが基本。(※確認しておく)

茶筅通しをした後、茶巾で拭う手順が違う。

※まず底を巾の字を書くようにして清め、そのあとに輪っかを外側にして茶巾を茶碗にかけ、3回まわして清め、茶巾を正面に向けて、すっと抜き、そのまま建水の上で絞る。

(※確認しておく)

後の手順は他のものと同じ(だったはず)

お軸は、「茶」の一文字のみ。「心静かに茶を楽しむ」という文言も書かれてあった。石州流らしいお軸で、感動。

 

 

今回は桑小卓の手前。

飾り付けがまず違う。

撮影許可をもらったので写真を載せます。

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下の棚に建水が入っています。建水には蓋置きが入っています。

まずは茶碗だけを持って入室。茶碗だけを持つことになり、入室は1回だけなので、道具畳の前で座り、道具畳の中に茶碗をおく。襖に向き直り、閉める。茶碗持って立ち上がり、棚の前へ。

丸卓と同じように左ヒザのあたりに茶碗を仮置きにする。

ここでまずは右手を手の甲を上にして、建水を押すようにして、同時に左手で少し掴んで引くようにして取り出す。そのまま左手で建水の位置に置く。

柄杓を右手と左手で掴み持ち上げると、左手を外して右手だけで棚の内側から取り出すようにする。その後、左手で受け、そのまま建水の上に置く。

右手で薄茶入れを取り、置き合わせの位置に置く。その後茶碗も置く。しばらくは平手前と同じ。

拝見の挨拶の後、柄杓と蓋置きを建水に置き、薄茶器と茶杓を拝見に出す。その後、棚に向かって、柄杓と蓋置きを飾りつける。

建水だけ持って退出する。次は茶碗を持って退出する。このとき、建水の水を捨てて、飾りつけるために建水を持って入室する。建水を持って入室し、ふすまを閉めて、棚に向かう。棚に向かうと、左手で持った建水を体の正面で右手も受けるようにして、両手ですっと棚の下に入れる。手がかりを残すように、全部入れない。また、置くようにするのではなく、すっと押し込むようにする。

その後釜に向かい、清めるなど、平手前と同じ。

 

今日のお菓子は、京都の宝泉堂さんの加茂葵という、ハート型の(葵の葉っぱなんでしょうけど)、大納言小豆のお菓子でした。バレンタインぽいなと思いました。

 

お軸は、「光」の一文字のみ。慈光院の和尚さんが書いたとのこと。春に向かう気持ちを感じます。光に向かい、春に向かう。卒業シーズンも近いですし、良いではありませんか。
もう少し味わって拝見したかったです。

卒業という単語が出たということで、初音ミクの「旅立ちの日に」を紹介して終わります。


旅立ちの日に - vocal : 初音ミク(V3)

 

 

【感想】 幸福な職場 【きたむらけんじ】

たむらけんじさん作・演出の「幸福な職場」を観てきた。小技も効いて、笑いあり、涙ありの充実の2時間だった。

 

2009年から演出やキャストを変えて繰り返し上演されているらしい。それも納得する(安定の)クオリティだったし、これからも上演を続けて欲しい内容だった。知り合いに電話して勧めたいくらい。つまり、大満足。

 

というか、このお芝居、社員研修で観せたらいいんじゃないの。

それくらい、今の日本に必要だと思うし、時流に求められていると思う。2009年よりも、ダイバーシティが声高になって、長時間労働是正にようやく動き始めた今の方が。

人事の皆さん、まだチケットが多少残っているそうですから、上演中にぜひどうぞ。

 

 

さて、以下、ネタバレを含むかもしれない感想を30分1本勝負で書く。

 

 

 

 

 

私は障がい者と普段あんまり触れ合う機会がないから、彼らのことをよく知らない。

だから手術をして子どもを産めない体にするという話は地団駄踏みたいくらいショッキングだったし、月に好きな人の顔を描いているという、可愛らしい素敵な手紙にも感動する。空に月があって本当によかった。

 

この作品を観て、障がい者の彼らが救われるストーリーを、現実でも期待する人は少なくないだろう。私は1週間ぐらい、誰にでも優しくできそうな気持ちになった。

バッハのマタイを聴いた青年が、「善良な人間になりたいと思います」と感想を言い、バッハはたいそう喜んだそうな。私もそんな気持ちになった。これは芸術の力である。

 

 

こんな風に素直に感動して心あたたまる作品だったのだが、このお芝居は「障がい者」を扱っているからこそ、メッセージ性を持てたのか、というと、たぶんそうではない。

この作品、働く喜びと人は何のために生きるのかを描いていると同時に、なぜ働きづらくなってしまうのか、それも丁寧に描けている。

この働きづらさって、障がい者の人に限らない。その指摘が、さりげなく鋭い。

 

私が印象に残ったのは、会社で働くことはとりもなおさず、「自分たちのルールに従え」という命令から始まってしまうのだ、ということ。

そりゃそうだ。

チョークを作るためには、会社が研究の末に編み出したカルシウムと接着剤の配合比があるし、機械で練り上げる時間も分単位で決まっている。

作業手順も、道具も機械も、すべてもう出来上がっている。その中で、働いている人たちは現在の最適解を実現していると信じ、ルール化している。

そのルールが決まったのは、暴君や専制によってではない。合理性だ。だからこそルールに従うのは当然で、従えない人にはご退場いただくしかない。というかそんな人、そもそも採用できない。

 

 

でも、これって、いろいろ暴力的な前提に立っているのではなかろうか。それに、なんだかとっても不幸なことではなかろうか。

そんな問いをこのお芝居は突き付けている気がするのだ。ちょっと難しく言えば、『アンチ・オイディプス』で統合失調症患者が人間性を再定義すると予言したように。

 

 

富士ソフト企画という会社に取材に行ったことがある。その会社は障がい者雇用が9割以上の会社だ。身体障がい者から精神障がい者まで、いろんな人が働いている。目が見えない、耳が聞こえない、自閉症で他人に共感しづらい、そんな人たちが一緒に働いている。

 

彼らの話を聞いて、魂が震えるくらい衝撃を受けた。彼らは自分たちがコミュニケーション可能だという前提に立っていないから、かえって良いコミュニケーションが取れていると言う。

そして、お互いの得意不得意を理解しているからこそ協力でき、能力を発揮でき、企業として成長し続けられるそうなのだ。それだけでなく、病気も少しずつ良くなっている。

しかも、彼らは健常者の助けを借りない。自分たちで、チームの最適な運営を考え出している。

 

私たち「健常者」は、意思疎通できて当たり前、価値共有できて当たり前、という前提に立って物事を進めている気がする。というか、インタビューしていて自分自身がまさにそうだと気づき、目からウロコが100枚くらい落ちた。

そういう前提に立っていると気づかないほどに当たり前になっているけど、思ったほど物事って、そううまく進まないよね。

個人の能力を最大に引き出し、コミュニケーションを十分に取るのって、「健常者」にとっても本当に難しい。

かといって、コミュニケーション取れない、ルールを共有できないという前提に立つのって、はっきり言って面倒くさい。丁寧に付き合った方がいいとわかっていても、怒りたくなる時がある。

 

この面倒なことを削ぎ落とし、相手がどんな人間なのかも削ぎ落としてきたのが日本の労働環境だとも思う。まあ、仕方がないことなのだけど。

 

でも、この作品でも描かれているように、やはりダイバーシティが達成されている会社って、強い。

人に合わせて仕事をデザインすると、作業が効率化されるし、発想も多様性が出てくるし。やっぱり、幸福な職場が会社を強くするのだなと思う。

 

ところで、ここのところ、人事が採用にあたって重視する能力の筆頭が「コミュ力」だそうだ。ずっとトップを独走中らしい。

 

人事の考えていることが、「会社のいうことをとにかく聞け」という隷従を求めるものではなく、「お前ととことん向き合うから、理解しよう、伝えようと懸命になってくれ」というものであってほしい。

学生諸君には、「どうやら会社は君とじっくり付き合いたい、ということらしいぞ、どうやら会社も変わってきたようだな」とポジティブに解してほしい。

そう願うばかり。

 

まあ、上記のようなことを考えて、ハートフルだけど、まさに今見るべき社会性もしっかり持った作品だと、吹聴したい気持ちになったわけである。

 

法律は数学(数字)ではなく文学、というセリフも良かったなあ。