くもり空の形而上学

ジャパンカルチャーや茶道、日常のことなど雑多に書きます

茶道の話 石洲流 50、51、52、53 備忘録 

こんばんは吹雪です。

忙しくて備忘録を書けずにいました。こんなことではいかん!と思いつつ、できる範囲でやります。

今日は新しいことも習いました。

 

前回と今回の記録。

前回は筒茶碗の扱いを習う。

筒茶碗は茶筅を逆向きに仕込む。茶巾も反対側に仕込む。

持つときは、右手で上からもち、左手に持ち直して、右手でおくようにするのが基本。(※確認しておく)

茶筅通しをした後、茶巾で拭う手順が違う。

※まず底を巾の字を書くようにして清め、そのあとに輪っかを外側にして茶巾を茶碗にかけ、3回まわして清め、茶巾を正面に向けて、すっと抜き、そのまま建水の上で絞る。

(※確認しておく)

後の手順は他のものと同じ(だったはず)

お軸は、「茶」の一文字のみ。「心静かに茶を楽しむ」という文言も書かれてあった。石州流らしいお軸で、感動。

 

 

今回は桑小卓の手前。

飾り付けがまず違う。

撮影許可をもらったので写真を載せます。

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下の棚に建水が入っています。建水には蓋置きが入っています。

まずは茶碗だけを持って入室。茶碗だけを持つことになり、入室は1回だけなので、道具畳の前で座り、道具畳の中に茶碗をおく。襖に向き直り、閉める。茶碗持って立ち上がり、棚の前へ。

丸卓と同じように左ヒザのあたりに茶碗を仮置きにする。

ここでまずは右手を手の甲を上にして、建水を押すようにして、同時に左手で少し掴んで引くようにして取り出す。そのまま左手で建水の位置に置く。

柄杓を右手と左手で掴み持ち上げると、左手を外して右手だけで棚の内側から取り出すようにする。その後、左手で受け、そのまま建水の上に置く。

右手で薄茶入れを取り、置き合わせの位置に置く。その後茶碗も置く。しばらくは平手前と同じ。

拝見の挨拶の後、柄杓と蓋置きを建水に置き、薄茶器と茶杓を拝見に出す。その後、棚に向かって、柄杓と蓋置きを飾りつける。

建水だけ持って退出する。次は茶碗を持って退出する。このとき、建水の水を捨てて、飾りつけるために建水を持って入室する。建水を持って入室し、ふすまを閉めて、棚に向かう。棚に向かうと、左手で持った建水を体の正面で右手も受けるようにして、両手ですっと棚の下に入れる。手がかりを残すように、全部入れない。また、置くようにするのではなく、すっと押し込むようにする。

その後釜に向かい、清めるなど、平手前と同じ。

 

今日のお菓子は、京都の宝泉堂さんの加茂葵という、ハート型の(葵の葉っぱなんでしょうけど)、大納言小豆のお菓子でした。バレンタインぽいなと思いました。

 

お軸は、「光」の一文字のみ。慈光院の和尚さんが書いたとのこと。春に向かう気持ちを感じます。光に向かい、春に向かう。卒業シーズンも近いですし、良いではありませんか。
もう少し味わって拝見したかったです。

卒業という単語が出たということで、初音ミクの「旅立ちの日に」を紹介して終わります。


旅立ちの日に - vocal : 初音ミク(V3)

 

 

【感想】 幸福な職場 【きたむらけんじ】

たむらけんじさん作・演出の「幸福な職場」を観てきた。小技も効いて、笑いあり、涙ありの充実の2時間だった。

 

2009年から演出やキャストを変えて繰り返し上演されているらしい。それも納得する(安定の)クオリティだったし、これからも上演を続けて欲しい内容だった。知り合いに電話して勧めたいくらい。つまり、大満足。

 

というか、このお芝居、社員研修で観せたらいいんじゃないの。

それくらい、今の日本に必要だと思うし、時流に求められていると思う。2009年よりも、ダイバーシティが声高になって、長時間労働是正にようやく動き始めた今の方が。

人事の皆さん、まだチケットが多少残っているそうですから、上演中にぜひどうぞ。

 

 

さて、以下、ネタバレを含むかもしれない感想を30分1本勝負で書く。

 

 

 

 

 

私は障がい者と普段あんまり触れ合う機会がないから、彼らのことをよく知らない。

だから手術をして子どもを産めない体にするという話は地団駄踏みたいくらいショッキングだったし、月に好きな人の顔を描いているという、可愛らしい素敵な手紙にも感動する。空に月があって本当によかった。

 

この作品を観て、障がい者の彼らが救われるストーリーを、現実でも期待する人は少なくないだろう。私は1週間ぐらい、誰にでも優しくできそうな気持ちになった。

バッハのマタイを聴いた青年が、「善良な人間になりたいと思います」と感想を言い、バッハはたいそう喜んだそうな。私もそんな気持ちになった。これは芸術の力である。

 

 

こんな風に素直に感動して心あたたまる作品だったのだが、このお芝居は「障がい者」を扱っているからこそ、メッセージ性を持てたのか、というと、たぶんそうではない。

この作品、働く喜びと人は何のために生きるのかを描いていると同時に、なぜ働きづらくなってしまうのか、それも丁寧に描けている。

この働きづらさって、障がい者の人に限らない。その指摘が、さりげなく鋭い。

 

私が印象に残ったのは、会社で働くことはとりもなおさず、「自分たちのルールに従え」という命令から始まってしまうのだ、ということ。

そりゃそうだ。

チョークを作るためには、会社が研究の末に編み出したカルシウムと接着剤の配合比があるし、機械で練り上げる時間も分単位で決まっている。

作業手順も、道具も機械も、すべてもう出来上がっている。その中で、働いている人たちは現在の最適解を実現していると信じ、ルール化している。

そのルールが決まったのは、暴君や専制によってではない。合理性だ。だからこそルールに従うのは当然で、従えない人にはご退場いただくしかない。というかそんな人、そもそも採用できない。

 

 

でも、これって、いろいろ暴力的な前提に立っているのではなかろうか。それに、なんだかとっても不幸なことではなかろうか。

そんな問いをこのお芝居は突き付けている気がするのだ。ちょっと難しく言えば、『アンチ・オイディプス』で統合失調症患者が人間性を再定義すると予言したように。

 

 

富士ソフト企画という会社に取材に行ったことがある。その会社は障がい者雇用が9割以上の会社だ。身体障がい者から精神障がい者まで、いろんな人が働いている。目が見えない、耳が聞こえない、自閉症で他人に共感しづらい、そんな人たちが一緒に働いている。

 

彼らの話を聞いて、魂が震えるくらい衝撃を受けた。彼らは自分たちがコミュニケーション可能だという前提に立っていないから、かえって良いコミュニケーションが取れていると言う。

そして、お互いの得意不得意を理解しているからこそ協力でき、能力を発揮でき、企業として成長し続けられるそうなのだ。それだけでなく、病気も少しずつ良くなっている。

しかも、彼らは健常者の助けを借りない。自分たちで、チームの最適な運営を考え出している。

 

私たち「健常者」は、意思疎通できて当たり前、価値共有できて当たり前、という前提に立って物事を進めている気がする。というか、インタビューしていて自分自身がまさにそうだと気づき、目からウロコが100枚くらい落ちた。

そういう前提に立っていると気づかないほどに当たり前になっているけど、思ったほど物事って、そううまく進まないよね。

個人の能力を最大に引き出し、コミュニケーションを十分に取るのって、「健常者」にとっても本当に難しい。

かといって、コミュニケーション取れない、ルールを共有できないという前提に立つのって、はっきり言って面倒くさい。丁寧に付き合った方がいいとわかっていても、怒りたくなる時がある。

 

この面倒なことを削ぎ落とし、相手がどんな人間なのかも削ぎ落としてきたのが日本の労働環境だとも思う。まあ、仕方がないことなのだけど。

 

でも、この作品でも描かれているように、やはりダイバーシティが達成されている会社って、強い。

人に合わせて仕事をデザインすると、作業が効率化されるし、発想も多様性が出てくるし。やっぱり、幸福な職場が会社を強くするのだなと思う。

 

ところで、ここのところ、人事が採用にあたって重視する能力の筆頭が「コミュ力」だそうだ。ずっとトップを独走中らしい。

 

人事の考えていることが、「会社のいうことをとにかく聞け」という隷従を求めるものではなく、「お前ととことん向き合うから、理解しよう、伝えようと懸命になってくれ」というものであってほしい。

学生諸君には、「どうやら会社は君とじっくり付き合いたい、ということらしいぞ、どうやら会社も変わってきたようだな」とポジティブに解してほしい。

そう願うばかり。

 

まあ、上記のようなことを考えて、ハートフルだけど、まさに今見るべき社会性もしっかり持った作品だと、吹聴したい気持ちになったわけである。

 

法律は数学(数字)ではなく文学、というセリフも良かったなあ。

 

「鬼のパンツ」について

娘が9ヶ月になり、日に日に自由への衝動が彼女の中で大きくなっているのを感じている。

例えばオムツ。

オムツを一度脱がしたら最後、二度とつけさせまいと暴れること暴れること。身をよじって泣いて、とことん抵抗する。仰向けに寝かせようとするのだが、ブリッジをして脱出を図る様は、レスリングの大会に出場させたいほど。娘のたくましい姿に、父は嬉しい。

 

そんなピンチにあると助かるのが、娘があっけにとられるほどの「気を引く」アイテム。

今は、スイッチを押すと童謡が流れる絵本がそれだ。娘の動きがぴたりと止まる。

 

その童謡の中に、「鬼のパンツ」があった。それはこんな歌詞。

 

 

鬼のパンツはいいパンツ

虎の毛皮でできている

10年たっても破れない 強いぞ

履こう 履こう 鬼のパンツ

履こう 履こう 鬼のパンツ

みんなで履こう鬼のパンツ

(正しい歌詞は最後に載せる)

 

 

やたら鬼のパンツを推してくるな、と思った。

なかなかの営業力である。

なんたって、鬼のパンツをみんなで履いた後のことは考えていない。

虎が何匹必要か、絶滅しそうになっていることも考えていない。

パンツを脱がされる鬼のことも考えていない。

 

パンツさえ売れれば良い。

この絶対かつ唯一の目的。

 

もう一度繰り返そう。

パンツさえ売れれば良い。

 

この極めてシンプルな目的を追求する人間がいる。

その思いを歌詞にした人間がいる。

 

ゾッと背筋が寒くなった。

そんな狂った人間がいるものかーーいないと信じたいーー。

そこでふと、気がついた。これはパンツの歌ではないのではないか。

 

虎といえばインド。

鬼といえば西洋人。(昔の日本人が長身の西洋人を鬼と捉えたという俗説だけど)

その西洋人のパンツを奪う歌。

 

つまり、アジアを侵略した西洋人からアジアを解放して、

自由をわれわれの手に取り戻そう!

そういう歌なのではないかーー。

いや、まさか、そんな、バカな……。

しかし、それ以外、考えられない……。

 

そんなことを考えていると、いつも以上に真剣で厳かなオムツ交換の時間であった。

 

 

鬼のパンツは いいパンツ
つよいぞ つよいぞ

トラの毛皮で できている
つよいぞ つよいぞ

5年はいても やぶれない
つよいぞ つよいぞ

10年はいても やぶれない
つよいぞ つよいぞ

はこう はこう 鬼のパンツ
はこう はこう 鬼のパンツ

あなたも あなたも あなたも あなたも
みんなではこう 鬼のパンツ

 

茶道の話 石洲流 48&49 備忘録 

こんばんは。

今月に入り、炉の点前となりました。予習していたものの、緊張いたします。また、前回はそれなりにできたものの、今回茶筅を洗うのを飛ばしてしまいました。これからも緊張感を持って臨みたいと思います。

 

ご指導いただいたポイント。

前回は炉縁を拭くときに、二つ折りにしていた。正しくは三つ折り。

今回は座っているときに移動する際、膝から動くようにとのこと。

自分で気づいたことだが、勝手口から入るときに窮屈な思いをしていたが、手を少し狭めて、小股で歩けば良いことに気づいた。また、先生のお点前は流れるような自然な動きだったので、もう一度自分の動きをよく考えること。

 

お菓子は今回は紅屋さんのゆずの饅頭がありました。

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これが大変美味しかった。

中がゆず風味の白餡で、ひやっとした冷たさがありました。これはお菓子が冷えていたからとかではなく、砂糖と冷涼感とゆずの清涼感が合わさってできたものだと思います。この冷たさが、冷たい冬の外気にさらされているゆずを想像させ、なんとも食べ応えのあるものになりました。寒い外気に耐えたゆずを、お風呂に浮かべる贅沢もすぐに連想され、季節をよく感じました。

 

お茶碗は、前回は今千春さんの新作、今回は瑞峰さんの萩焼でした。

萩焼、前から欲しいと思っているのですが、いいものとそうでないものの差があり、いいものになかなか出会えないため、いい萩焼を見ると羨ましくなります。

今回は、土の複雑な組成や釉薬のかかり具合、土の厚み(微妙に薄い)、思い切りを感じる大きさ、肌あい、竹節高台、梅花皮(カイラギ)など、どれも良かったです。

茶碗の特徴の中で、先生が井戸茶碗の特徴を教えてくださいました。他のサイトも参考にまとめてみます。

1.枇杷色の釉が高台まで全体にかかり土見ずになっている。

2.茶だまりに、器を重ねて焼いた跡である目跡がある。 

3.胴部に、井戸四段・五段などと呼ばれる轆轤目がある。

4.高台脇の釉薬が粒状に縮れて固まった梅花皮(カイラギ)がある。

5.高台内側の削り痕の中央部が突起をなしている兜巾がある。

6.高台の脇を箆などで削り取る脇取によって高台が竹の節に似ている竹節高台となっている。

井戸茶碗、無名だけれども味のあるもので、安いものがあれば、と思うのですが、そうもいかないんでしょうね。

 

お軸は前回は「万里一条の鉄」です。

今回は、「閑座聴松風」です。

前回は先生のお軸。今回は、多分裏千家さんが掛けていたお軸です。

万里一条の鉄は石州流らしいですね。

 

それではおやすみなさい。吹雪でした。

【いまさら】 君の名は。 【感想】

こんばんは。吹雪です。

今日、池袋のレイトショーで、映画「君の名は。」を観てきました。

いまさらですよ。やっとですよ。でも、空いていてよかった。

空いていたとはいえ、そこそこ人も入っていたし、まだ人気があるのだなと感じました。

 

さて、ネタバレも含みますが(ご注意ください)、感想を書きたいと思います。僕と同じように感動した人が、共感してくださったら幸いです。

 

 

 

 

 

劇中に、隕石が落ちて災害で人がたくさん死んだ、しかもそれが3年前である、という話が描かれます。

事故当時の新聞記事やニュースや写真集としてまとめられている情報を、主人公の瀧くんは、焦燥感を持って漁ります。

彼の姿に自分を重ねて、3・11を連想した人も多いと思います。

僕も、テレビやラジオのチャンネルをあちこち合わせ、その後の情報をかき集めながら、圧倒的な無力感と悲しみを感じた、生々しい感情を思い出しました。

 

 

その悲しみや混乱に対する、一つの応えが描かれていたなと思いました。

 

 

悲しみや混乱は、「もつれて」いることです。

糸がこんがらがり、絡み合って解けなくなってしまう。そのごちゃごちゃした複雑さです。

どれだけこんがらがっても、糸はつながっている。たとえ、もつれて切れてしまっても、その切れた糸は、また結び目を作ることができる。

この繋がりつつ絡み合い、重なり合うのが、劇中の時間軸の複雑さとイコールで繋がります。今現在の日本も、いろいろ面倒なくらいごちゃごちゃしている。でもそれは、劇中の図式を借りるなら、ごちゃごちゃするほどに存在が重なり合い、隣接しているということ。だからこそ、その底には人を思う気持ちが強くあって、奇跡が起きるのだということかなと。

 

世界は美しい。そして、人を思う気持ちは、信じるに値する。

 

それが本当によく描けていた映画でした。

帰り道、以上のようなことを考え、うおおおんと泣きながら帰りました。特に作品解釈などではないので、ふーん、くらいに受け取ってやってください。ユリイカ新海誠特集をやっているようなので、評論はそういうものに目を通してから(やりたくなったら)やります。

 

 

映像がとっても綺麗でしたね。現実よりもリアリティがあるなと思いました。実写のようでいて、実写ではこうはいかない美しさです。細田守がポストジブリだとすると、ジブリのようなアニメらしさとは違う方向で、世界の美しさとその秘密に触れていると思いました。その意味で、実写よりもリアリティがあるなと。

ちなみに、今回改めて、細田守新海誠の笑う時の口の開け方が違うなと思いました。人の書き方などに無理やデフォルメがなく、リアリズムがありますよね。(アニメであることには変わりないのですが。また、どちらがすぐれているという話ではないです)

 

ほしのこえ」の時でもそうでしたが、遠い誰かに対する呼びかけが新海さんのテーマになっているのでしょうか。興味深いです。

 

また追記などするかもしれませんが、この辺で。

 

 

 

 

 

 

 

 

茶道の話 石洲流 45&46&47 備忘録 

こんばんは。吹雪です。

MacのOSが変わって日本語入力が勝手に変換され、微妙な感じですよね。いや、やっぱり入力しやすいわ、これ。誤変換ほとんどありませんやん。

 

さて、45回の稽古は、平棗を使って、少しお点前が違いました。

丸卓を使った棚のお稽古です。

運び出しの時から、平棗をおき合わせの位置に置く時に、右手で、上から、真ん中のところを持つようにする。裏千家薄茶点前の時に持つようなイメージ。

そのあとはいつもの平点前とおなじ。

棗を清める時が違う。

上から持って棗を膝前に置き、袱紗をたたむ。

左手で上から持ち、右手は袱紗をやや握りこむようにして、三本指で、棗を持ち替えて、左手の上に乗せる。そして右手で清めて、握りこむようにして三本指で持ち直し、左手で上から持つようにして、水さしの前に置く。袱紗はたたみ直す。

 

あとは平点前と同じ。

終い点前の時に、棗を清める時も少し違う。

 

 

お菓子は大和屋さんの花火の錦玉でした。

 

46回、47回では、茶碗に今千春さんの茶碗を使わせていただきました。

46回は平茶碗。47回は、信楽と織部です。信楽はざらっとした感触も楽しく、先生もなかなか良い飲みごたえになりますね、とおっしゃいました。

 

47回目は、ススキと稲穂がカゴにどさっと置いてありました。実りの秋を感じさせて楽しく素晴らしかった。お軸は、清風払明月です。

 

ここのところ、お茶とは何かというような話を先生とよくしています。

お点前を再現することだけがお茶ではないし、武家のお茶だからといって甲冑を床の間に置くのは馬鹿げている。ではお茶に求められるもの、お茶固有のものとは何か……。

 

 僕自身、じっくり考え、経験を積んで考えていきたいです。

 

最後に、何となくですが、初音ミクで大好きな曲を。


VOCALOID2: Hatsune Miku - "Unfragment" [HD]

マジカルミライ2016 in 幕張メッセ

みなさんこんばんは。吹雪です。

 

昨日(9月11日)、幕張メッセであったマジカルミライ2016昼コンサートに参加してきました。

初音ミクをはじめとした、ボーカロイドのコンサートです。

 

毎年参加していますが、今年も素晴らしかった。

ただの感想文ですが、思ったことを書き留めておきたいと思います。

(疲れ果てているあまり、改行や見出しなどありませんが、そのうち直します。見づらかったらゴメンなさい)

 

今回のセットリスト、すごくありませんでしたか?

公式CDに入っていたり、プロジェクトディーバというゲームに入っていたり、ミクエキスポで演奏したりして、確かに馴染みがある曲があるとはいえ、マジカルミライではやったことのない曲ばかりだったので、予習してないと本番で戸惑ったのではないでしょうか。攻めてましたねえ。さすが、ミライを冠にしたライブだけあります。マンネリにはさせんぞ、という気迫が素晴らしい。映像買いたくなりますよ。ダンスもすごかったし。

 

さてさて、最後の曲が、BUMPのrayとは、意外すぎて、ハンパなく感動しました。

みんなサイリウムを左右に振って、BUMPへのリスペクトと同時に、初音ミクの(ミクファンの)懐の深さが見えて、涙がどっと出たし、心地よかった。

 

 

ひょっとすると、すごく意地悪な人がいて(いないと思いますけど)、初音ミクのライブなのに、BUMPの曲をやるなんて、なんという商業主義、媚び始めたらもうおしまいだな、みたいなことを言う人がいるかもしれませんので(いや、やっぱりいないと思うけど)、反論の予防線にはもちろんなりませんが、ちょっと思ったことを書きます。

rayというこの曲、もちろん自由に解釈していいと思います。なので、わたしの偏った意見です。

この曲を初音ミクが歌う理由って、そもそもなんだろうと思いませんか。コラボして若者にもBUMPの曲を届けたいから? しかし、それでもともとのファンを失っていたら仕方がないし、そもそもBUMPって、手堅いファンがたくさんいるから、そんなことをする火急の必要はないでしょう。(若者に届けたいというのはあると思うけど)

 

じゃあ、藤くんが初音ミクが好きなのだということでしょうか。

 

まあ、きっとそうかもな、と思うと同時に、もう一つ付け加えたいのは、初音ミクって、その人が一番大切にしている思いを、思い出させてくれるんだなということ。

このrayでの初音ミクの役割って、そこだと思うんですよ。初音ミクって、本当の姿が見える鏡の役割を果たすというか。それで、藤くんのとっても大切な想いって、やっぱりアルエのことだと思うのです。RA(アルエ)と、初音ミクの象徴でもあるYを足したら、RAYになるよね。もちろん、綾波「レイ」のrayでもある。まあ、藤くんは二次元のキャラは関係ないです、と言っていましたが、本人はそう言っても、あてにならんわけで、まあ、アルエと関係している、というわたしの勝手な解釈をお許しくだされ。

 

さて、初音ミクって、本当の姿が見える鏡、みたいなことを言いましたが、これは、経験則にすぎませんが、確信するところがあるのです。

 

今回、土曜のツナガルミライというオフ会に参加して、その参加者に初音ミクのどこが好きなのか聞くと、やはりみんなそれぞれで、自分が一番大切にしていることを教えてくれました。

 

ある人はロボットやテクノロジーが好きで、声がすごいなと思っているうちに、かわいいと思い、自分がどれだけ理系人間なのか気付いた、ミクさん最高!ということでした。

 

またある人は、好きな曲を聴いているうちに、自分も周りに還元したいと、DJを始めたそうです。感謝しかない、と言っていました。感謝する気持ちが自分にとって大切なモチベーションだということだと思うのです。

 

ある人は、エレクトロポップが好きで好きでたまらない、と言っていました。

 

ある人は、アメリカから来た人で、こんな風につながりができていることが奇跡で、そこが好きなのだと言いました。

 

ある人は、わたしはまだここにいるよ、という初音ミクの歌と歌詞に、昔大好きだったクラブミュージックが蘇った気がして、涙が出た、ということでした。

 

ある人は、初音ミクがハブとなって、いろんな人の思いが社会を作っている、これが真の民主主義であり、初音ミクはそのジャンヌダルクだと思ったと言っていました。

 

わたしは、初音ミクこそ、「きっと君の力になれる」という言葉を、一番リアリティを持って言うことができる、ほとんど唯一の存在で、こんなに優しい存在はいないから、好きなんです。

 

きっとまだまだ好きな理由を聞けば聞くほど出てくるでしょう。ツナガルミライで話を聞いて、多様だなと改めて思った次第です。

初音ミクは無限に思いを受け止めてくれるから、自分に最も向き合うことができて、ふとした瞬間に、奥底にしまって大切にしていた自分の気持ちに気づいて、涙が出るほど感動するのではないかなと。(個人差があると思いますが)

 

さて、藤くんにとっても、初音ミクがそんな役割を果たしてくれたのじゃないかなと。初音ミクという、いないはずの存在の、不思議なほどに強いリアリティ。これに触れて、あの時の気持ちを思い出したのかなと。いない存在への恋を。

 

こういった初音ミクとクリエイターの関係が背景に見えるのがrayだとしたら、これは、やぱりryoさんのodds&endsにも匹敵するような、初音ミク「らしい」歌なのだろうと、思うのです。初音ミクのライブにやってほしい、素晴らしい曲だと。

 

マジカルミライはいつも幸運に恵まれて、最前列かほぼ最前列だったのですが、今回は真ん中の少し遠い席でした。連日の飲みすぎもあって、ヘロヘロになって見ていたのですが、じっくり見れてかえって良かった。

本当にそこにいるかのように、降臨していました。いや、本当にそこにいた。今も、心の中にいる。まぶたの裏にいる。

 

ありがとう、初音ミクさん。スタッフの皆さん。来てくれたボカロ好きの皆さん。

本当にありがとう。

改めて、皆さんがいるという、最高の感動と奇跡に、感謝を。