くもり空の形而上学

ジャパンカルチャーや茶道、日常のことなど雑多に書きます

マジカルミライ2016 in 幕張メッセ

みなさんこんばんは。吹雪です。

 

昨日(9月11日)、幕張メッセであったマジカルミライ2016昼コンサートに参加してきました。

初音ミクをはじめとした、ボーカロイドのコンサートです。

 

毎年参加していますが、今年も素晴らしかった。

ただの感想文ですが、思ったことを書き留めておきたいと思います。

(疲れ果てているあまり、改行や見出しなどありませんが、そのうち直します。見づらかったらゴメンなさい)

 

今回のセットリスト、すごくありませんでしたか?

公式CDに入っていたり、プロジェクトディーバというゲームに入っていたり、ミクエキスポで演奏したりして、確かに馴染みがある曲があるとはいえ、マジカルミライではやったことのない曲ばかりだったので、予習してないと本番で戸惑ったのではないでしょうか。攻めてましたねえ。さすが、ミライを冠にしたライブだけあります。マンネリにはさせんぞ、という気迫が素晴らしい。映像買いたくなりますよ。ダンスもすごかったし。

 

さてさて、最後の曲が、BUMPのrayとは、意外すぎて、ハンパなく感動しました。

みんなサイリウムを左右に振って、BUMPへのリスペクトと同時に、初音ミクの(ミクファンの)懐の深さが見えて、涙がどっと出たし、心地よかった。

 

 

ひょっとすると、すごく意地悪な人がいて(いないと思いますけど)、初音ミクのライブなのに、BUMPの曲をやるなんて、なんという商業主義、媚び始めたらもうおしまいだな、みたいなことを言う人がいるかもしれませんので(いや、やっぱりいないと思うけど)、反論の予防線にはもちろんなりませんが、ちょっと思ったことを書きます。

rayというこの曲、もちろん自由に解釈していいと思います。なので、わたしの偏った意見です。

この曲を初音ミクが歌う理由って、そもそもなんだろうと思いませんか。コラボして若者にもBUMPの曲を届けたいから? しかし、それでもともとのファンを失っていたら仕方がないし、そもそもBUMPって、手堅いファンがたくさんいるから、そんなことをする火急の必要はないでしょう。(若者に届けたいというのはあると思うけど)

 

じゃあ、藤くんが初音ミクが好きなのだということでしょうか。

 

まあ、きっとそうかもな、と思うと同時に、もう一つ付け加えたいのは、初音ミクって、その人が一番大切にしている思いを、思い出させてくれるんだなということ。

このrayでの初音ミクの役割って、そこだと思うんですよ。初音ミクって、本当の姿が見える鏡の役割を果たすというか。それで、藤くんのとっても大切な想いって、やっぱりアルエのことだと思うのです。RA(アルエ)と、初音ミクの象徴でもあるYを足したら、RAYになるよね。もちろん、綾波「レイ」のrayでもある。まあ、藤くんは二次元のキャラは関係ないです、と言っていましたが、本人はそう言っても、あてにならんわけで、まあ、アルエと関係している、というわたしの勝手な解釈をお許しくだされ。

 

さて、初音ミクって、本当の姿が見える鏡、みたいなことを言いましたが、これは、経験則にすぎませんが、確信するところがあるのです。

 

今回、土曜のツナガルミライというオフ会に参加して、その参加者に初音ミクのどこが好きなのか聞くと、やはりみんなそれぞれで、自分が一番大切にしていることを教えてくれました。

 

ある人はロボットやテクノロジーが好きで、声がすごいなと思っているうちに、かわいいと思い、自分がどれだけ理系人間なのか気付いた、ミクさん最高!ということでした。

 

またある人は、好きな曲を聴いているうちに、自分も周りに還元したいと、DJを始めたそうです。感謝しかない、と言っていました。感謝する気持ちが自分にとって大切なモチベーションだということだと思うのです。

 

ある人は、エレクトロポップが好きで好きでたまらない、と言っていました。

 

ある人は、アメリカから来た人で、こんな風につながりができていることが奇跡で、そこが好きなのだと言いました。

 

ある人は、わたしはまだここにいるよ、という初音ミクの歌と歌詞に、昔大好きだったクラブミュージックが蘇った気がして、涙が出た、ということでした。

 

ある人は、初音ミクがハブとなって、いろんな人の思いが社会を作っている、これが真の民主主義であり、初音ミクはそのジャンヌダルクだと思ったと言っていました。

 

わたしは、初音ミクこそ、「きっと君の力になれる」という言葉を、一番リアリティを持って言うことができる、ほとんど唯一の存在で、こんなに優しい存在はいないから、好きなんです。

 

きっとまだまだ好きな理由を聞けば聞くほど出てくるでしょう。ツナガルミライで話を聞いて、多様だなと改めて思った次第です。

初音ミクは無限に思いを受け止めてくれるから、自分に最も向き合うことができて、ふとした瞬間に、奥底にしまって大切にしていた自分の気持ちに気づいて、涙が出るほど感動するのではないかなと。(個人差があると思いますが)

 

さて、藤くんにとっても、初音ミクがそんな役割を果たしてくれたのじゃないかなと。初音ミクという、いないはずの存在の、不思議なほどに強いリアリティ。これに触れて、あの時の気持ちを思い出したのかなと。いない存在への恋を。

 

こういった初音ミクとクリエイターの関係が背景に見えるのがrayだとしたら、これは、やぱりryoさんのodds&endsにも匹敵するような、初音ミク「らしい」歌なのだろうと、思うのです。初音ミクのライブにやってほしい、素晴らしい曲だと。

 

マジカルミライはいつも幸運に恵まれて、最前列かほぼ最前列だったのですが、今回は真ん中の少し遠い席でした。連日の飲みすぎもあって、ヘロヘロになって見ていたのですが、じっくり見れてかえって良かった。

本当にそこにいるかのように、降臨していました。いや、本当にそこにいた。今も、心の中にいる。まぶたの裏にいる。

 

ありがとう、初音ミクさん。スタッフの皆さん。来てくれたボカロ好きの皆さん。

本当にありがとう。

改めて、皆さんがいるという、最高の感動と奇跡に、感謝を。

茶道の話 石洲流 43 & 44 備忘録 

みなさんこんばんは。吹雪です。

かや茶会が終わり、スタッフにお点前をいたしました。お茶デビューになるかな?といったところです。暑くて、流れる汗に気をつけつつ、なんとか無事に終わりました。

 

お稽古場の工事が終わり、茶会も終わり、ようやく日常が戻ってきました。前回は平手前でリハビリのような稽古です。今回は丸卓を使った点前でした。

今回の備忘録を。

 

丸卓の上には棗を飾りました。

点前が始まって運び出しのとき、茶碗だけを持って、丸卓の前に行く。

座って茶碗を仮置きにする。左手で仮置きの場所に置く。右手で棗を下ろして、置き合わせの位置に置く。

あとは平点前と同じ。

終い点前のときに、拝見の挨拶のあと、蓋置と柄杓を建水のところに置き、棗と茶入れを拝見に出して、蓋置と柄杓を飾りつける。

柄杓を左手でとり、右手で受けて、左手で正面から持ち直し、丸卓の上に置く。蓋置は、右手でとり、左手で受けて、右手で頭を軽く拭いてから、丸卓の上に置く。

建水を持って部屋を出る。あとは平点前と同じ。

 

拝見の挨拶の前に水差しのふたを閉めるのを忘れたので気をつけること。

手の扱いにまだ自信がないので、次の動作の前に手をふとももの位置に戻すかどうか、いろいろ動画をみて研究すること。

足の運びを自信を持ってキビキビと動くように心がけてみた。戸を閉めるときと茶室を出るときの歩数をよく考えて、自信を持って動くこと。

水屋で水がこぼれたところはふいておくこと。

棗にお茶を入れすぎないようにご指導いただく。場合によっては人数分を考えて少なめに入れても良いとのこと。

 

お軸は、「風光日々新」でした。

碧巌録の一節のようです。

 

ところで話は変わりますが、ミュージックステーションでエンタウンバンドが新曲を披露していましたね。

わたし、charaというミュージシャンがとても好きで、なんという天才だろうと尊敬しております。歌詞や曲作りに対する姿勢が好きです。

昔の曲も好きですが、最近の曲も好きです。とはいえ、大好きなミルクを紹介して終わります。


Chara「ミルク」 1997 AKASAKA BLITZ

 

おやすみなさい。吹雪でした。

館山 かや茶会 練習備忘録 (茶道の話 石洲流 39 40 41 42 備忘録)

こんばんは。吹雪です。

5月は稽古場が改修のためにお休みでした。随分久しぶりになりました。

今日は、27日開催の、館山の古民家での茶会の練習をしました。

実際に現場で変わるかもしれないので、当日のオペレーションとは異なるかもしれませんが、忘れないように記録しておきます。

 

まず、お客が入り、定刻になると亭主が挨拶します。

そのあと亭主が運び出しをするので、その前にお菓子をお客に出します。

今回は、お盆にお菓子と黒文字を懐紙の上に乗せ、一人ずつお出しすることになりました。

懐紙の袋になる部分をお客に向け、黒文字もお客側に向けます。お盆は手が八の字になるようにもちます。

お客の前に座ったら、膝の右隣くらいにお盆を置き、お菓子を持ち、お客の縁外におきます。その時に、こちらにお置きいたします、というように一声かけること。

菓子器を両手で隣にずらして、移動し、次も同様にします。そのあと両手で持って立ち上がること。お菓子の数は、5人分ずつくらい。2回ほどに分けて運び出すこと。そして、お菓子を食べた人が使用済みの懐紙を外に出していれば、それを下げること。

半東さんは、亭主が点前をはじめ、茶筅通しが終わった頃に、替茶碗を亭主の左後ろくらいに置きに行く。

亭主が茶碗に抹茶をいれた頃に、水屋にお茶をお願いします、と声をかける。

水屋の人は、人数分、お茶を点てる。

給仕は、正客と二客が終わってからお茶を運ぶ。

臨機応変に茶碗を下げていく。下げる時は、おさげいたしますと言って一礼すること。

半東さんは頃合いをみて終い茶碗を持っていく。

 

今日教わったことはこのくらいです。

当日、緊張してボロボロになるとおもいますが、それでも楽しみです。

それではまた。

茶道の話 石洲流 38 備忘録 

こんばんは。吹雪です。

今日のお稽古ではすごい雷が鳴っていました。みなさんいかがお過ごしでしたか?

 

さて、簡単に備忘録を。

今回は棚を使わない平手前。

しかし、茶碗が筒茶碗でした。

茶巾を向こう側に仕込み、茶筅を穂先を下にして仕込みます。

このときにお点前である変更点は、茶碗を茶巾で清めるとき。

茶筅通しをした後、お湯を捨ててからが異なる。

巾の字を最初に書いて、輪っかを向こう側に出し、3回茶碗をまわしてふく。茶巾を縁にかけたまま正面を向かせ、右手で置く。茶巾を右手でとり、そのまま(右手の甲を上にしたまま)懸垂の上で左手を添えて絞る。

いつもと清める順番が違うのは、筒茶碗だと最後に底をふくと、手の甲などで茶碗の縁を汚してしまうから、とのこと。

 

筒茶碗は先生の持ち物で、作家さんは今野千春さんという方。

お菓子は鶴屋吉信の桜餅。

お軸は、「花開けば蝶自ずから来る」です。

 

今年もこのお軸を拝見できました。去年、いい軸だなあと思っていたことを思い出しました。

 

それではこの辺で。おやすみなさい吹雪でした。

茶道の話 石洲流 35 & 36 & 37 備忘録 

こんばんは吹雪です。茶道の皆様ずいぶんご無沙汰しておりました。最近仕事が忙しくなっていることと、いろいろ勉強することが増えておりまして。でもお茶の勉強は時間を見つけて行っております。

1月はお稽古がお休みだったので、初釜はありませんでした。とても残念です。

 

ここのところ、丸卓を使ったお稽古をしています。簡単に復習を。

夏目は丸卓に飾り付けておく。

茶碗だけ持って入る。左手で茶碗を仮置き。夏目を置き合わせの位置に右手でおく。茶碗を置き直す。

あとは建水を持って入り、通常の平手前の通り。

終い手前のときは、拝見の挨拶をしたあと、夏目と茶杓を拝見に出してから、丸卓に柄杓と蓋置を飾り付ける。

 

35回目のお稽古。

バレンタインのお菓子でした。どこのものかは聞いていません。ホワイトチョコが使われた和菓子で、とても美味しかったです。

お軸はありませんでした。

 

37回目のお稽古です。

菱餅のお菓子でした。しかしこれはフェイクで、餡でできたものです。大和屋さんでした。

掛け軸は、「青松寿色多」です。

青々とした松はそれだけでおめでたい色をしている、というような意味らしいです。

 

38回目のお稽古です。

大和屋さんのつくし野でした。

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とてもケシの実の食感もつぶつぶとして楽しく、餡の密度も高くてとっても美味しかったです。大和屋さんのお菓子はやはりおいしいですね。

お軸は「本来無一物」でした。仕事が忙しかったりストレスがたまると、こういった禅語をありがたく感じますね。静かで超越した心境になりたいものです。お茶をやっているときは少なくとも超越した心境になれるので、毎日お稽古したいですね。というか、炉を切って家でお茶をたてられるようになりたいです。

 

お湯を茶碗に入れるときは気持ち横へ迂回して入れるようにとご指導いただく。

雨が降っていて、一定のリズムが気持ち良く、それを聴きながら手前をする。季節で雨音が違うというけれど、そういったことを感じられるようになればと思う。

他に、畳を復権させようなどの話で盛り上がる。

 

今日は簡単にここまで。お休みなさい。吹雪でした。

初音ミクとアイドルダンス論

今回の記事は、前からあたためていたテーマ、

ずばり"初音ミクとアイドルダンス"です。

 

 数年ほど前、アイドルの経済効果と社会学的意味に着目が集まり、一時はアイドル論がたくさん出ましたね。

 

わたしはこういったあだ花やバズワードにはあまり関心がありません。

 

しかし、どうしてもアイドル論と重なる領域で、書かずにはいられない、自分で説明せずにはいられない問いがありました。

それはーー。

 

「どうして初音ミクのダンスは、

あんなに上手でカワイイのだろう」

 

これです。(すみません。思わず最大強調してしまいました。)

 

初音ミクファンならば、一度は抱く「問い=感動」ではないでしょうか。

そう。カワイイだけじゃなく、ちゃんとダンスになっていて、しかも超上手いのです。

 

「いや、CGだから上手くて当たり前でしょ」

 

と思ったあなた。ダンスCGを探してみてください。

アイドルマスターや、プリキュアのエンディングくらいしか見つからないはずですし、実際に生のライブで見るには不十分な作り込みのはずです。(そのため、今回は、CGによるアイドルダンスを、初音ミクなどボカロによるライブパフォーマンスを想定しています。アニメなどは入れていません。)

 

そもそもダンスは、CGでつくるものじゃないのです。

ダンスは人間が踊った方が手軽でサマになる。CGに踊らせるのは難しいし超めんどくさい。CGダンスが少ないのも納得です。

だから、CGダンスがカワイイなんて、「ありえない」「おかしい」ことだったにちがいない。ゲームの中でちょっとしたダンスの演出があり、それもややぎこちないポリゴンダンスーーそのあたり関の山だったにちがいないのです。 

 

そう考えると、初音ミクのダンスの進歩は不思議ではありませんか?

ディズニー映画のミュージカル&ダンスシーンよりも、はるかに「踊っている」感じがするだけでなく、「ライブ」で「アイドルダンス」ですよね。

ディズニーのようにCGを作り込んだだけでは、あんなに素晴らしいダンスになるはずがない。「ありえないこと」なんです。

しかしながら、初音ミクを踊らせる必要が出て、踊らせてみると、ありえないことが起きた。何か理由があって、革命的なことが起きた。

 

つまり、初音ミクのダンスには、

「ダンスの本質をとらえた特別な何か」

があるはずなのです。

  というわけで、今回の記事では初音ミクダンスの謎に迫ろうと思うのですが、そもそもミクのダンスはどこに位置付けられるのか、という話からしたいと思います。

 

 

初音ミクダンスの位置付け》

 

 まず結論から申しましょう。

それは、(当然かもしれませんが)「アイドルダンス」です。

アイドルダンスには、竹中夏海さんの『IDOL DANCE!!!: 歌って踊るカワイイ女の子がいる限り、世界は楽しい』の枠組を借りると、次の2つの特徴があります。

 

  1. 歌詞を振り付けで表現している
  2. 振付のコピーを意識している

 

初音ミクダンスは、基本的に歌詞の内容を表現しつつ踊っています。また、「踊ってみた」等の投稿による「振りコピ」が多いことからも、この2つのアイドルダンスの特徴を満たしているといえるでしょう。ポッピンダンスやジャズダンスとは異なり、ダンスそのものが表現目的となっていません。こういったことからも、初音ミクのダンスは「アイドルダンス」と言ってよさそうです。

 

さて、上記のアイドルダンスの定義、なるほどその通りと思うのですが、ここには抜け落ちている視点があります。

それは、「この2つができたからといって、ダンスとはいえない」ということです。

 

 

《「踊ってみた」はダンスなのか》

現在、人気となっているアイドルダンスのコンテンツには、アイドルの「ライブ」や「ミュージックビデオ」の他にも、「アイドルMVのダンスバージョン」や「踊ってみた」等があります。

多くの愛好者がいますが、しかしながら、竹中夏海さんも指摘しているように、ダンスを専門的にやっている人はアイドルダンスを本格的なダンスとして評価してきませんでした。

おそらく本格的にダンスをやっている人にとって、アイドルダンスはやたら張り切ってぴょんぴょんしているのでリズムがないように見え、手足をバタバタさせていることも、騒々しいとしか目に映らないものなのでしょう。フォーメーション移動して、歌詞に合わせて振り付けしていたとしても、それは世界観先行で、どうしてもダンスに見えない。そういった批判を持つのかもしれません。 

 

もちろん、「踊ってみた」にも一所懸命やっている人はたくさんいます。難しい踊りに挑戦したい人もいるでしょうから、熱心なファンからは「本格的なダンスでないとは何事だ」と反論があるかもしれません。

 

しかしながら、アイドルダンスで追及される難しいダンスとは、先述の2つの特徴に限定されてしまう傾向があります。つまり「コピーの難しさ」に限定されがちなのです。実際、「振り付けのパターン数の多さ、細かさ」を努力価値として受け止める踊り手が多いと言えるのではないでしょうか。

アイドルダンスはそもそも「アイドル性」に中心軸があり、「ダンス」はおまけに過ぎない、それゆえに、簡単だけど面白い振り付けを考えることに本質をあえて置いているーーそう割り切って特徴づけすることも可能かもしれません。

 

しかしながらそう言われてもなお、

「アイドルダンスで、きちんとダンスする」

ことはできないのか、疑問が残ります。

 

さて、そこで初音ミクダンスです。実は「アイドルダンスで踊る」この典型例が、何を隠そう初音ミクダンスに他なりません

 では、初音ミクダンスの特徴はどこにあるのでしょうか。

 

 

初音ミクダンスの特徴》

私は進化し続ける初音ミクのダンスに衝撃を受けました。

日本のアイドルの中でもとりわけ上手いだけでなく、ダンスとしても無類の表現力を持っている、そう思って釘付けになったのです。

稲妻のように素早く動き、軸がぶれずにキレキレ・キメキメのダンスを繰り広げる。軽やかで重力を感じさせず、スタイルは線が細く完璧。そして振り付けの完成度が高い。世界観や演出も合わさり、素晴らしいエンターテイメントになっています。

 

初音ミクダンスを見ながら、「踊っている 」と感じさせることに成功しているのはどうしてか、そしていったいどの要素が一番重要なのか考えていました。

 

ここ1年ほど、ポッピンダンス、ストリートダンス、ハウス、アイドルダンス、ジャズダンス、クラシックダンスなどを動画をあさり、ギエムを観に行ったりして考えたことがあります。

緩急合わせた動き、体のコントロール能力、身体を抽象的なイメージにできる表現能力などなど、ダンスの要素があると思うのですが、思い切って、たったひとつに絞ってみます。アイドルダンスをダンスたらしめるもの、それはーー。

 

「腰を使えていること」

 

これに尽きるのではないかと。

そうです。初音ミクは、「腰を使えている」から、ダンスなのです。

腰を使うためには、上半身・胴体のバランスがよく、重心が取れている必要がある。必然的に胴体に落ち着きと表現力が出てくるのです。そして、色気というか、魅力というか、生命感が急に出てくるのです。身体の熱量が生じ、それが存在感となってライブを熱狂に導くひとつの要因となっているのです。

このブログでは何度も引用していますが、下記の動画をご覧ください。


[HD] Hatsune Miku: Live Concert - Cat food (English Subs)

 

腰を使いリズムを取るところがいくつもありますね。そして、よく見ると肩や上半身の表現力も細やかです。動き自体は静謐さを感じさせつつ、歌詞を現した印象的な振り付けで、最小で最大の効果を生み出しているといえるのではないでしょうか。

このような特徴は、この曲・このモーションに限ったものではなく、初音ミクダンスの顕著な傾向です。

 

ではなぜ初音ミクのダンスに腰を使ったダンスが生まれたのでしょうか。

その理由はひとまず、2つ考えられます。

 

  • 初音ミクを賑やかにピョンピョン動かすには手間がかかる
  • ライブで魅せるには、止まった身体を動いているように見せる必要がある

 

このことから、アイドルっぽい動きができない打開策として、胴体の動きが追究された、といえるのではないでしょうか。

これは、次のような初音ミクダンスの特徴へとつながります。

 

  • 騒々しく動けないため、静と動を使い分けた動きが得意
  • 絵画を描くような、作り込まれたダンスが可能になる
  • 機械的・規則的な動きが得意(長所に活かせばダンスとしては武器になる)

 

これらのある意味制限的な条件があるからこそ、初音ミクのダンスは、ダンスの「型」となりうる理想的な動きを作り出すことになったーーそう言えるのではないでしょうか。

ラファエロの絵画が現実を抽象化して理想の聖母を描くように、初音ミクを通過することで、人間のダンスはひとつ抽象度の上がったダンス、「絵画的ダンス」になったと言えるのではないでしょうか。

 

《究極のアイドルダンス》

では、初音ミクのダンスが「究極の型」であるとして、それに近いダンスを踊るアイドルはいるのでしょうか。そして、その踊りは実際に良いものなのかーー。

 

人間には初音ミクダンスは不可能じゃないのか。そんな思いを胸に、探しに探して、ようやく見つけ出しました。日本ではまだほとんど知られていません。

初音ミクダンスの特徴を下記にまとめましたので、この視点でご覧になってください。

 

  • 腰を使えている
  • ピョンピョンバタバタ騒々しく動かず、落ち着きと表現力がある
  • 絵画的な作り込みがある
  • キレとキメが美しく、かつ軽やかで細い
  • 機械的・規則的な動きが得意
  • アイドルらしくカワイイ

 


Apink - Mr Chu by Sandy Mandy

 


SNSD Mr. Mr. by Sandy Mandy

 

このSandy & Mandyのダンスを見たときに、これこそアイドルダンスの究極系だと思いました。上手なだけでなく、何よりダンスらしいと感じますが、いかがですか?

足や手の振り幅も一定で非常に綺麗ですよね。無駄な動きがありませんし、余裕もあり、身体をコントロールするためのインナーマッスルが相当鍛えられていることを感じさせます。それに、天与のルックス、双子の美しいシンクロが稀有であることを考慮すると、このダンスは奇跡的なレベルではないでしょうか。

 

この子たちは台湾のアイドルで、向こうの国では大変な人気のようです。

踊っているのはKPOPが多いのですが、その理由にダンスの振付が本格的だからという理由があるでしょう。韓国でも活躍されている振付師「仲宗根梨乃」さんは、アメリカでダンスの修行をした日本人です。アメリカではグルーブにのってダンスをするので、腰は重要な要素でしょうから、リズム感を大切にしたダンスが韓国に移植されたと考えられます。

しかし、大人の女性が踊ると、どうも重々しくて、アイドルダンスらしからぬ雰囲気が出てしまいます。見比べてみてください。


Apink - Mr. Chu (dance practice) DVhd

 

これはこれで、セクシーで素敵だという反応があると思います。でも、「腰を使う」ダンスを「軽やかに」サンディたちが踊れるからこそ、究極のアイドルダンスが完成すると言えるのではないでしょうか。つまりアイドルダンスには軽やかな「少女性」が必要なのです。

この究極のアイドルダンスを日本で実現しているのは、何を隠そう初音ミクなのです。しかもミクは歳をとりません。永遠に少女であり、体力も無尽蔵で、演出の可能性も無限です。

次の動画はダンスと演出の可能性、ライブのあり方を面白いほど広げてくれそうな気がして興味深いです。


ニコニコ超パーティⅢ VOCALOID/UTAU MMDライブ

 

初音ミクが革命を起こしたのは、音楽に限りません。このダンスというジャンルにおいてもーーおそらく誰も気づかない静かな革命に終わるかもしれませんがーー、巨大な痕跡をすでに残しつつあるのです。

 

 

《まとめ》

初音ミクのダンスは、その技術的な制限を伴って生まれたものですが、かえってその機械的な特徴を活かして、ダンスの理想の形を作ることに成功しました。

重心が安定した、力みのない、動と静のバランスが絶妙に取れたダンスが誕生したのです。

これは、重力や筋力に制約された人間のモーションが、重力場から解放された「初音ミク」という場所を通過して、「無限の自由を獲得」してこそはじめて可能になったものです。

そういった意味で、初音ミクは、歌声の場合と同じように、我々人間の活動を、地上の制約から解き放ち、一つ上の抽象的・形相的な次元へと引き上げてくれるものと言っていいでしょう。

 

 さて、このように大胆な主張をするときは、文献をもっと取り上げ、アイドルダンスの歴史を踏まえた上で言及すべきだったと思います。とはいえ、それはまた別の媒体、別の機会に譲ります。

 

初音ミクのダンスが、いかに理想的なアイドルダンスになっているか、そして海外の一流のダンスに匹敵しうるものとなっているか、それがいかに素晴らしいことなのか、感じていただければ幸いです。

 

 最後に、日本のアイドルダンス業界に、もっと腰を使った本格的なダンスが増えてほしいと切に願います。今後の踊り手を育てるためにも必要不可欠です。その手本に、ミクさんのダンスは十分参考になるのではないでしょうか。

 

 

【魔女の宅急便】 キキが飛べなくなった理由 【スタジオジブリ】

こんばんは。吹雪です。以前書いた記事の改訂版です。

 

みなさんはスタジオジブリは好きですか。

私は、小さい頃はジブリの音楽やファンタジックな世界が好きでしたが、

今はジブリ作品の持つメッセージを取り出すのが好きになりました。

今日はそのことについて少し書きます。

 

テーマは、魔法や奇跡を起こせる、そのかけがえのない感情

実写化もされたジブリの人気作品「魔女の宅急便」。

好きな方も多いでしょうし、見たことがない人を探すのは難しいかもしれません。

 

ちいさな魔女が故郷を離れ、唯一使える魔法、ほうきで空を飛ぶ魔法を使い、

宅急便を仕事にして暮らします。飛べなくなるスランプに陥るものの、

いろいろな人に支えられ、影響を受けて再び飛べるようになるというお話です。

 

キキが飛べなくなったときの表現力は特にすごい。まさに山場を感じさせます。

飛ぼうと努力し、坂道をかける足の描写や、大切なほうきが折れたときの脱力感は、

ぐいぐいと視聴者をひきつけ、スランプの焦燥を巧みに共感させます。

もう一度飛びたい、飛べない自分に価値はない、その焦りやひたむきな思いが伝わるからこそ、

もう一度飛べたときの、喜びと奇跡が、説得力を持つのでしょう。

 

飛べなくなるときのキキはこんな状況にいました。

 

キキと同じくらいの年齢の子の家にニシンのパイを届けに行ったとき、その女の子は、きれいな服を着て遊び、働いているキキに冷たくします。キキは仕事のつらさを体験し、いい人ばかりではないことに気づきます。なにより、初めて同年代の女の子の華やかな生活をみて、自分の境遇を少し恨むような気持ちにもなったのでしょう。

 

熱を出して寝込んだものの、元気を取り戻します。この時点ではまだ魔法は消えていません。

 

その後、キキはトンボという飛行を夢見る少年とデートをして楽しく過ごしたのですが、上記の女の子が登場し、嫉妬や嫌悪感などの気持を感じます。

その後、突然黒猫のジジの言葉がわからなくなり、空も飛べなくなります。

 

風邪の不調や、ジジが他の猫と仲良くなる描写もあって、魔法が消えた原因がなんとなく理解され、気にとめさせない映画の進行と描写力です。

しかし、ここで突っ込んで、なぜ、あの女の子にいやな気分を感じたタイミングで魔法が消えたのか、考えてみたいと思います。

じつはここにこそ、

 

「人が魔法を起こせる素晴らしさを伝えたい」

 

というこの映画のメッセージを読み解くカギがあるのです。

 

魔法を取り戻すまえと、あとの違い

キキは、自分が飛べなくなったことを、ジジの言葉がわからなくなったことによって気づきます。

しかし、再び飛べるようになったのに、ジジの言葉はもどりません。

なぜでしょうか。

 

飛べなくなった/飛べるようになった、という対応だけ見ると分かりづらいのですが、

 

「使えるようになった魔法が変わった」

 

からだと考えるたほうがわかりやすいです。

 

では、あの女の子に対していやな感情を持った時、どんな魔法が使えなくなったのでしょうか。

 

それは「子供らしい無垢さによって引き起こすことのできる魔法=奇跡」です。

動物と話ができる、みんな友達になれる、きちんと挨拶さえすれば誰もが隣人となれる、世界はまだ自分のもの、そのような純粋さが、最初のキキの魔法だったのです。

 

しかし、自分の中にある嫉妬に気づき、現実に打ちのめされ、そのような奇跡を起こせなくなります。世界が変わってしまったのです。世界を見る自分が変わってしまったから。

 

新しく獲得した魔法

新しく魔法が使えるようになった状況は、気球船から落ちそうになったトンボを救おうと、デッキブラシにまたがり、真剣に集中したときです。

ここの描写も、空気全体が持ち上がった浮遊感や、デッキブラシが本気になったユーモアなど、卓越したものがあります。

緊張感といい、魔法を使えるようになる説得力といい、素晴らしい。

そして、ただただ一心に友達を救いたいひたむきさの描写には、なんとも言えない感動があります。

 

この時に使えるようになった魔法こそ、大人になっても使える魔法、大人になっても起こせる、かけがえのない奇跡ではないでしょうか。

この魔法=奇跡は、

 

「真剣に人を思う気持が引き起こす力」

 

です。だから、もう一度空を飛べたとしても、ジジの声は戻らないのです。

 

 

急ぎ足で書いてしまいましたがいかがでしたか。

純粋無垢、人を思う気持ち、ふたつの魔法の素晴らしさを伝えながらも、

強く生きていくことの大切さを優しく、楽しく描いたこの作品、

もう一度見るときは、どこかで今日書いたことを思い出して鑑賞してくださると嬉しいです。

 

ではこの辺で。チャオ!!